2025年1月19日<顕現後第2主日>説教

「清め」

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 ヨハネによる福音書2章1~11節

 今日読まれたのはガリラヤのカナという場所で婚宴があり、イエス様と弟子たち、そして母マリアが招待された、そのときの出来事です。少し物語をなぞってみたいと思います。カナとはナザレの北14㎞ほど離れたところで、小さな田舎町でした。そこでの婚宴にイエス様の母であるマリアが呼ばれたので、イエス様とその弟子たちもついて行ったということでしょうか。しかしそこで、大事件が起こります。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」。

 今でも地域によっては、結婚式やお葬式などを盛大におこなうことがあります。しかし当時のガリラヤ地方での婚宴はなんと、7日間も続いたそうです。花婿やその家族は、どれくらいの人が来るのかを予想して、食事の準備を始めます。これはわたしたちも同じかもしれません。少なかったらいけないし、でも多すぎて余ってしまっても困る。そうして提供する数を考えていくことでしょう。しかし当時のガリラヤでは、そんなに単純ではありませんでした。わたしたちは、足りなくなったら買いに走ればいい。また食べることがたとえできなかったとしても、どこにでも食べる場所はある、と考えます。だから少し余裕は持たせるものの、基本的にギリギリの数を準備することができます。しかしガリラヤでは、足りなくなったらどうしようもありませんでした。しかも足りなくなった場合は、花婿やその家族が大きな恥を受けることになります。だからかなり多めに準備しておいたのです。

 ところがこの婚礼において、用意しておいたぶどう酒がなくなってしまうという事態が起こります。思っていたよりも大人数が押し寄せて来たのか、あるいはうわばみのような人が何人もいたのか。理由はわかりません。しかしこのままでは、花婿が恥をかいてしまう。そこでイエス様の母マリアが行動を起こすのです。マリアはイエス様に向かってこう言います。「ぶどう酒がなくなりました」。それに対してイエス様は、お母さんであるマリアに対して返すのです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。「婦人よ」ってなに!と思いませんか。しかしここでイエス様は、マリアと一定の距離を取っているように思うんですね。マリアは確かにお母さんです。しかしイエス様の働きは、身内のためだけにあるのではない。そういうことなのかもしれません。

 けれどもマリアは、イエス様ならきっとどうにかしてくれるに違いないという思いがあったようです。召使いにイエス様が何か言ったらその通りにやってくれと言付けし、物語は進んでいきます。イエス様がなさったこと、それはその家の前に置いてあった6つの石がめに水を一杯入れてきなさいと命じ、それを汲んで宴会の世話役の元に持っていきなさいと言われたということです。そして世話役がその水の味見をしてみたところ、とてもおいしいぶどう酒に変わっていたということです。これでみんな助かりました。花婿も恥をかかずに済んだし、マリアも面目を保ちました。またまだまだぶどう酒を飲みたいなあと思っていた人たちも、おいしいお酒にありつけることができました。みんなハッピー、まさにハッピーエンドです。

 でもこの物語って、そんな聖書に載せるようなことなの?って思う人もいるかもしれません。そんなぶどう酒が足りなくなったって一大事だっていうけど、それよりも大切なことっていくらでもあるわけです。聖書にはたくさんの病人のいやしの物語や貧しい人たちに手を差し伸べるもの、また亡くなった方を生き返らせるという奇跡物語も載せられています。それらの物語を読むときに、わたしたちは思うわけです。イエス様ってそうやってわたしたちに関わってくれるんだって。だからわたしたちは安心できるのです。でも水をぶどう酒に変えることができたと聞いても、どうでしょうか。それなら心強い。そうなるでしょうか。しかもヨハネ福音書には、この奇跡は「最初のしるし」だとわざわざ書かれているのです。実はこの物語には他に、わたしたちに対する大切なメッセージがあるのです。

 聖書の中に、わたしたちがそのまま理解できない言葉が含まれています。「2ないし3メトレテス」というものです。これはユダヤで用いられていた単位ですが、1メトレテスは約30~40リットルです。ということは1つの水がめには、60から120リットルも水が入るということです。青い大きなポリバケツを思い浮かべて下さい。その大きさは高さ60cmのものに匹敵します。そのような大きな水がめが家の前に6個。そしてその水は、雨水を貯めておくとはではなく、ある用途に用いられていました。その用途とは、「清め」です。簡単に言うと家に入ってくる人が、外から「けがれ」を持ち込まないようにしていたのです。「けがれ」です。「よごれ」ではありません。漢字にすれば同じですが、意味はまったく違います。

 泥とかホコリとか、そのような体の「よごれ」を洗い流すのではないのです。そういう「簡易シャワー」のような役割ではありません。そうではなく、「汚れた人」に出会ったり、触れてしまったり、そのようなことがあってはいけないから、「身体を清める」というその目的のために、それだけ大量の水を用いていたのです。道の途中で汚れた人とすれ違ってしまったかもしれない。広場で言葉を交わした人の中に汚れた人が含まれていたかもしれない。だから念入りに頭からつま先までしっかりと清める。つまり水がめの水は、外部の汚れた人たちと自分たちとを遮断するもの、汚れた人たちを排除するためにその水がめは使われていました。水がめとは、人と人とを分け隔てる象徴だったのです。

 イエス様はその分断のしるしであった水がめの水を、ぶどう酒に変えられました。ぶどう酒は何を意味しているでしょうか。ぶどう酒は聖餐式でも用いられているとおり、喜びの宴の象徴です。お祝いの場に欠かせないものです。そして人と人とを分けるのではなく、結びつけるものです。

 イエス様が最初に示されたしるしは、神さまの恵みは閉ざされたある一定の人たちにだけ与えられるのではなく、すべての人たちに与えられることを教えてくれます。神さまはすべての人々を愛し、喜びの祝宴に招かれているのです。そのことをわたしたちに伝えたい、その思いでカナの婚礼の奇跡はおこなわれたのです。今日は顕現後第2主日です。顕現というのは神さまの恵みがわたしたちに現わされることです。わたしたちに喜びを与えるために、神さまはイエス様をお遣わしになりました。そのことをわたしたち一人ひとり、感謝したいと思います。

 そしてこの喜びを、すべての人と分かち合っていきましょう。閉ざされた仲間とだけではなく、周りにいる人たち、どんな人とも分かち合って欲しい、それが神さまのみ心だということです。