「愛敵…絵に描いた餅!?」
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ルカによる福音書6章27~38節
「敵を愛しなさい。」来ました。このザ・キリスト教の教え。イエス様は命じられるのです。愛するべきなのは、家族や友人、隣人だけではない、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と。みなさんは、このこれらの教えをどのように心に留めておられるでしょうか。私たちの多くはこの言葉を聞くと、心の中でこうつぶやきたくなるのでないでしょうか。「そんなの絵に描いた餅でしかない」と。
実際のところ、敵を愛することは人間の自然な感情に逆らうことです。誰かに憎まれたら、その人を憎み返してしまう、それが人間です。少なくとも、その人と距離を置こうとするでしょう。しかし、イエス様は私たちに、その憎しみの連鎖を断ち切るよう求めています。それは確かに難しい。けれどもただの理想論ではなく、私たちの人生を根本から変えるほどの大きな力を持つ教えであることを今日は心に留めたいと思います。
今朝読まれた旧約聖書に登場するヨセフの物語は、敵を愛することの難しさと、それがもたらす奇跡を私たちに示してくれます。ヨセフは10人の兄たちから憎まれ、奴隷として売られました。長い年月を経て、エジプトの支配者にまで上り詰めた彼は、13年ぶりに兄たちと再会します。ここで彼は、復讐する機会を手にしました。しかし彼は兄たちを罰するどころか、飢饉に苦しむ彼らに食糧や土地を与え、愛をもって接しました。
これは、彼がただ優しかったからできたことではありません。彼はすでに神の導きを信じ、自分の苦しみが意味のあるものであったと確信していたのです。だからこそ、兄たちを赦し、愛することができました。同時に、ヨセフはこのとき既に国の偉い人になっていたわけです。裕福な暮らしもできていたことでしょう。問題は、彼がまだ苦しみの中にいたなら、兄たちを愛することができただろうかということです。そして、私たち自身のことを考えるとき、自分が苦しみの中にいながら、敵を愛することはできるのでしょうか?
敵を愛することは、私たちの心の在り方に深く関わります。苦しみの中にいるとき、自分を傷つけた相手を無条件に赦すことは至難の業です。普通の人間にはほぼ不可能と言いきってもいいかもしれません。しかし、私たちが神さまの視点に立つとき、神さまが自分にお与えくださった大きなお恵みを思い出すとき、そこに希望が生まれます。愛とは単なる感情ではなく、神さまの働きの一部なのです。そこに参与する、そのことがイエス様に従う私たちに求められているのです。
ここで、「愛する」ということの意味をもう一度考えてみたいと思います。ここでいう「愛する」とは、人間レベルの理解、すなわち相手を好きになり、仲良くなることを意味しません。あなたを傷つけた人、憎しみを向けてくる人、あなたを軽蔑する人——それらの人たちを好きになる、すぐさま友だちになるというのはおそらく無理ですよね。愛するということは、相手を「認める」ことなのです。もちろん存在を認めることさえ難しいときがあります。そのときはその人たちのことを神さまにお任せしよう、その人たちのために祈ろうとすることなのです。その思いを可能にしてくれるのが、私たち自身もまた、神さまに愛され、認められ、受け入れられている存在だということです。
私たちは時に、憎しみや怒りに囚われ、人を裁き、自分と違う人を排除しようとしてしまいます。あるいは、自分の中にある悪い心を見て、「こんな自分は神に愛される資格がない」と思うこともあるでしょう。しかし、神さまはそんな私たちをも受け入れ、愛してくださいます。私たちがどんなに不完全であっても、どんなに過ちを犯したとしても、神さまは私たちを決して見放されません。実際に、イエス様は、何度も何度も神さまを裏切る私たち一人ひとりのために十字架にかかってくださり、神に祈ってくださったのです。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と。この究極の愛によって私たちを永遠の罪から救ってくださったのです。このことを心から知って、聖霊の力が注がれるとき、私たちもまた、自分を憎む人、自分を傷つける人を「神さまの子ども」として認め、その人のために祈ることができるのではないでしょうか。
『三匹のかわいいオオカミ』というギリシャの作家、ユージン・トリビザスさんによる絵本があります。この物語は『三匹の子ブタ』のパロディとして描かれています。
私たちには小ブタはかわいいもの、オオカミは悪いヤツというシナリオが既にインプットされていますが、この絵本はその思い込みから覆します。
三匹の子どものオオカミたちは、母親から家を建てるよう言われ、最初にレンガの家を建てます。しかし、悪い大ブタがやって来て、ハンマーでそれを壊してしまいます。次にかわいいオオカミたちはコンクリートの家を建てますが、また大ブタがやってきて、ドリルでそれを破壊します。次に、鉄の家を建てるのですが、今度はダイナマイトで吹き飛ばされてしまいます。
そこで、三匹のかわいいオオカミたちは考えるのですね「きっとぼくたち何か間違ってたんだ。今までとは違う材料を使おう」と考え、なんとお花でできた家を建てます。また大ブタがやってきたとき、彼はこんなちゃちい家、一息で吹き飛ばしてやる!と息まくんですね。そして大きく息を吸い込みます。するとその時、何とも言えない素晴らしい香りが身体中に満たされていくわけです。何度も何度も息を吹き出そうとするたびに、お花の香りに包まれていく。大ブタの心はだんだんやさしくなっていき、「ああ、おれは今までなんてひどい悪いブタだったんだろう。これからはいいブタになりたい」と改心して、うれしくなって歌を歌って踊り出すのです。するとかわいいオオカミたちも家の中から出て来て、挨拶して一緒に遊び、家の中に招いて、その後ずっと仲良く暮らすようになりました。こういうお話です。
この物語が示しているのは、「力には力で対抗する」のではなく、「愛によって心を変える」ということです。よく、「他人は変えられない。変えることができるのは自分だけ」ということが言われますが、その通りかもしれません。小さなオオカミたちは、最初ずっと大ブタから自分たちを守ることだけを考えて家を建てていました。絵本には書かれてはいませんが、きっとそこには怒りや憎しみの感情であふれていたことでしょう。でも、気づくわけです。自分たちは間違っていたのではないかと。こんなことして、まったく楽しくない。家もごついだけでまったく心地よくない。もっと自分たちを愛そう。そして、大ブタを信じてみよう。ひょっとしたらそんな風に思ったのかもしれません。自分たちを変える努力をしたのです。そしてそれは、ただのがまんではなく、そこに喜びを見出したのです。お花の家を建てることによって、小さなオオカミたちの心がどのように変えられていったか、想像に難くありません。
イエス様が言われる通り、敵を打ち負かすのではなく、相手を受け入れること、相手にしてもらいたいと思うことを自分がすることで、自分の心はもとより、人の心も変わっていくのです。
今日、改めてこの言葉を胸に刻んでみましょう。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」憎しみではなく、愛を選び取ることができますように。私たちがその愛に心を開くとき、世界は変わります。憎しみではなく、愛を持って人を受け入れるとき、そこに神の国が広がります。
どうか、今日ここで、皆さん一人ひとりが神の愛を感じ、その愛をもって他者に接することができますように。