2021年10月24日<聖霊降臨後第22主日(特定25)>説教

「開かれる」

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マルコによる福音書10章46~52節

 イエスと弟子たちはエリコの町に着きました。エルサレムの北東約25kmのところにある大きな町です。過越祭を祝うためにエルサレムへ向かう途中に、大勢の人たちがこのエリコの町に立ち寄ります。少し休憩を取って、旅を続けようとしたそのとき、ものすごい喧騒の中からかすかな、しかし芯のあるはっきりとした声がイエスの耳に届きました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。「ダビデの子」、それは旧約時代からユダヤの人々が待ち望んできたメシア、救い主をあらわす言葉です。イエスは立ち止まり言われました。「あの男を呼んできなさい」。

 物乞いをしている盲人はバルティマイと言いました。当時、目が不自由であれば、養ってくれる家族がいない限り食べていく術はなく、道端にすわって物乞いをするしかありませんでした。そんな彼が、ナザレのイエスがこのエリコに来たといううわさを聞きつけたのです。今しかない、この機会を逃してはならない、必死の思いで、彼は叫び続けました。「わたしを憐れんでください!」。「憐れみ」とは、受けるに値しない者に与えられる神の恵みです。自分のちっぽけさ、至らなさ、情けなさ、そして罪深さを知った者のみが心の底から求めるのが神の憐れみであり、それはイエスを通して与えられるのです。

 バルティマイは知っていました。目が見えず、働けず、お金もなく、家族もなければ友達もいない、そんな自分を救ってくださるのは神の子イエスしかいないと。日本語で「憐れんでください」と聞くといかにもか弱い声で申し訳なさそうにお願いしているように想像しますが、原文は命令形で書かれています。「あなたはわたしを憐れむんだ! 憐れまなきゃいけないんだ!」という感じでしょうか。ここから、バルティマイが、神は絶対に自分を見捨てたりなさらない、きっと救ってくださるにちがいないという、信仰の確信をいかに強く持っていたかが分かります。

 「さあ、大丈夫だ。立ちなさい。イエス様が呼んでおられるよ」。そう声をかけられたバルティマイは、うれしさのあまり、上着を脱ぎ捨て、おどり上がってイエスのところへ飛んで来ました。想像するに、上着とは、ぼろ布のようなもので、家もない彼が雨や風をしのぎ、心無い者たちの暴力から自分の身を守る防具のような役目をしていたのでないでしょうか。イエスに呼ばれた瞬間に、そんなものは必要なくなりました。とっさに脱ぎ捨て、踊るようにしてイエスのもとへきたのです。そんな彼を見て、イエスはお尋ねになります。「何をしてほしいのか?」。

 先週の福音書の中で、弟子のヤコブとヨハネの兄弟がどうしても叶えてほしい願いをもってイエスのもとへ来ました。そこでイエスは彼らに対し、バルティマイに言われたのとまったく同じように、言っておられるのです。「何をしてほしいのか」。ヤコブとヨハネは答えます。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。イエスがこれから十字架への道を歩まれるというときに、この弟子たちの願いは、十二人の中で自分たちを一番偉いポジションに付けてほしいというものでした。弟子たちは、ずっとイエスと寝起きを共にし、教えを聞き、奇跡を見てきたにもかかわらず、イエスが誰なのか、どういうお方なのか、まるで分っていなかったのです。そう、彼らの目はさえぎられていました。見えているようで肝心なものが何も見えていなかったのです。

 そんな弟子たちとともに旅を続ける中で、目の全く見えない、しかし心の目が今まさに開かれようとしているバルティマイに出会ったのでした。彼はイエスが救い主であることを確信し、絶対に神は自分をこの暗闇から救い出してくださる、そう信じて声が枯れるまで叫んだのです。「ダビデの子イエス、わたしを憐れんでください!」イエスには彼の心の目が開いていることがすぐにわかりました。そして、尋ねられたのです、「何をしてほしいのか」。答えは「目が見えるようになりたいのです」でした。

 この出来事を通して、イエスはまわりの弟子たちに、そして今生きるわたしたち一人ひとりにも目が見えていないことに気づいてほしい、そう願っておられるのでないでしょうか。

 この物語を読むたび、わたしは聖歌「アメージング・グレイス」を思い出します。1772年にジョン・ニュートンという英国国教会の牧師が作詞しました。父親は船乗りで、母親は大変熱心なクリスチャンでしたが、彼が七歳のときに天に召されます。やがて大人になったニュートンは父親のあとを継いで船乗りになり、当時の多くの船乗りが携わっていた奴隷貿易に参加し、多くの富を蓄えるようになりました。奴隷貿易とは、ヨーロッパの奴隷商人たちが安物の綿製品や金属製品、酒類や鉄砲を西アフリカに持っていって、そこでアフリカ人奴隷と交換する。その奴隷たちを大西洋を越えてアメリカ大陸や西インド諸島まで運び、今度はそこで砂糖、綿花、米、タバコなどと交換し、母国に持ち帰る。それを繰り返し、行く先々で莫大な利益をむさぼる貿易のことです。

 ニュートンは、その貿易船に乗っていました。胸や腕に焼印を押されたアフリカ人奴隷を鎖でつなぎ、夜も昼も横になることも場所を変えることさえできない状態にして、船底にびっちり詰め込み輸送するための船を操縦していたのです。そんな彼に突然転機が訪れます。それは1748年、彼が22歳のときのことでした。彼が船長をしていた船が突然暴風に遭ったのです。彼は今にも転覆しそうになる船の中でふと幼い頃母親に教えられた神を思い出し、生まれて初めて心の底から真剣に祈りました。すると船は奇跡的に嵐をくぐりぬけることができ、助かったのです。彼は、この日を第二の誕生日と決め、心に刻んだと言われています。

 その後も彼はしばらく船乗りを続けていましたが、1754年にある病気になったのをきっかけに船を降り、勉学と献金を重ねてついに英国国教会の牧師になりました。そして奴隷貿易に携わっていたころの罪を心から悔い改め、聖職者として奴隷貿易禁止運動に加わりつつ生涯を全うしました。こうして生まれたのが、「アメージング・グレイス」です。残念なことに日本語に訳された聖歌540番では、原文の半分しか訳されていないのですが、英語原文の一節は次のようになります。

Amazing grace! How sweet the sound! That saved a wretch like me!

I once was lost, but now I’m found; Was blind, but now I see.

驚くべき恵み!なんて美しい響きだろう。私のような罪にまみれた者が救われた。かつて迷い子だった私が、今見出された。かつて何も見えなかった私だが、今はっきりと見える。

 ニュートンは、嵐の中、叫びました。「わたしを憐れんでください」。こんなに罪深いわたし、救われるに値しない人間です。それでもあなたはこのような惨めな者を救ってくださると信じています。神様、どうかわたしを憐れんでください。助けてくださいと。そんなニュートンをイエスはご自分のもとへと招かれます。「何をしてほしいのか」。イエスは、彼の願いを聞き入れ、嵐の中から助け出しました。その嵐はその一時の舟の上のものだけでなく、彼の生き方そのものでもありました。そして神は彼に驚くべき恵みを与え、心の目を開いてくださったのです。目が開かれ、神の存在を確信したニュートンにとって、進む道はバルティマイと同様、イエスに従う道しかありませんでした。

 わたしたち一人ひとりにも神様によって目が開かれた瞬間があります。しかし、わたしたちの心の目が再び閉じられるのはどんなに容易いことでしょう。イエスを倣って生きていくはずだったのに、いつの間にか自己中心的に偉くなりたいと願ったヤコブとヨハネになってしまいます。弱いわたしたちの人生はそれの繰り返しです。でも、大丈夫。イエスは言われます、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさいそうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」と。バルティマイのように、何度でも主を呼び続けましょう。主イエスはどんなときもそんなわたしたちを招きいれ、お尋ねくださいます。「何をしてほしいのか」。その答え、もうあなたの中にあるはずです。