2021年4月18日<復活節第3主日>説教

「イエス様の証人として」

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ルカによる福音書24章36~48節

 復活節第3主日になりました。今日の箇所の前には、イエス様が墓から取り除かれた話、イエス様が復活なされたことを天使が女性たちに告げた話、エマオで二人の弟子に復活のイエス様があらわれた話、そしてシモンに復活のイエス様があらわれた話が載せられています。

 ところが、今日の箇所でイエス様ご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたときに、彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。すでに復活のイエス様が現れたという話が何度もあったにもかかわらずです。復活のイエス様が自分たちのところに来てくれた。その喜びはわかります。何となくイエス様を感じることもできるでしょう。でもうろたえるんです。怯えるんです。心に疑いを起こすのです。それがわたしたち人間の姿なのです。

 わたしたちは2週間前に復活日を迎えました。でも、「安かれ」と言われ続けるイエス様の姿に、「心を静めなければならない」、「すべてを信じて笑顔でいなければいけない」なんて、肩ひじ張って生きていかなくてもいいのです。泣きたいときは泣き、震え続けてもいい。そんなわたしたちに、そんなわたしたちだからこそ、イエス様は何度でも、いろんな形で、「わたしはここにいるよ」ということを伝えてくださっているのです。

 今日の福音書が伝えるイエス様の姿、ちょっとユーモラスに感じるのはわたしだけでしょうか。先週のイエス様は、こういう言い方がいいのかどうかは別として、どことなく神秘的でした。戸を閉め、鍵を掛けているのに、突然真ん中に現れました。

 今回も真ん中に立たれたというところは一緒です。でもその後が特徴的です。手や足を見せ、触ってみなさいと言い、自分には肉も骨もあるのだと言われる。そしてさらに「何か食べ物はあるか」と言い、差し出された一切れの魚をむしゃむしゃと食べる。どう考えても人間的なその姿に、ある意味親近感を覚え、ある意味笑みがこぼれ、ある意味安心します。イエス様が見せたその姿は、まさに日常の当たり前の光景だからです。イエス様が日常の中に来てくださった。そのことは何を意味するのでしょうか。

 わたしはこの前の火曜日、メダテ教会という今年3月21日に献堂式を迎えた教会に行き、そこで司牧されている西田牧師という人物にお会いしました。たっぷり二時間半、お話しをしてきました。その教会は、大阪の西成にあります。西成には「あいりん地区」と呼ばれる日雇い労働者が多くいる地域があります。そしてそこには、数多くのホームレスの方々がいる、そのような場所に建てられたのがメダテ教会です。

 彼女はそこで、伝道をします。神さまの愛を伝えます。これまで人々から見向きもされなかった、それどころが敬遠されていた人たちに伝えるんです。「神さまはあんたのことを愛しているんや」と。愛をばらまいているのです。

 過去に何度も犯罪に手を染めた人。お酒をやめることが出来ない人。不摂生がたたり、病気に侵されている人。家族に見捨てられ、住む家もなく路上にいる人。そのような人たちに彼女は手当たり次第、しつこく声をかけます。「神さまはあんたのことを愛しているんや」と。

 わたしたちはそのような話を聞くときに、自分たちには何ができるかを考えます。わたしもそうです。でも知らないうちに、そのことが施しを与えるとか、助けてあげるとか。何か自分が上で相手はただただ受ける人、そのように考えてしまうこともあるかもしれません。

 でも西田牧師はこんなことを言われていました。「わたし、言いますねん。この子らに、この教会にもっと人集めたいって。でも今は100人集まってない。それはあんたらが頑張らんせいやって。あんたらもしっかり伝道しいって」。

 この子ら、それは教会に集う人たちです。新しくできたその教会には、壁にずらっと、教会に集う人たちの写真が飾られていました。一人一人説明してくれました。「この子はこんな子で、こんな悪いことして、でも変わったんや」。

 ニコニコしながら語るその姿を見ながら、イエス様もそのようにわたしたちのことを見てくださっていたらうれしいなあ、って心の中で思いました。「こいつはひどかったんだ。今もまだひどいけど、でも少しはましになってるかな」。わたしの顔写真を指さしながらイエス様がブツブツ言ってたら面白いなあ、そんなことを考えていました。

 イエス様とわたしたちは、そのような関係なのかもしれません。イエス様は弟子たちの真ん中で、魚をむしゃむしゃ食べられました。日常の中で、わたしたちと同じ目線で歩んでくださる、それがイエス様の姿です。

 遠くから「頑張れよ~」ではない。上の方から「これだけ恵みを与えておけば大丈夫かな」でもないのです。

 わたしたちと同じところに立って、一緒に歩んでくださる。今日の復活物語を通して聖書が伝えたかったこと、それはイエス様とはそういうお方だということです。一緒に食べ、一緒に喜び、一緒に泣き、一緒にもがき、一緒に苦しむ。わたしたちを家族として迎え入れ、いつまでも見捨てることのないお方なのです。

 わたしたちが神さまから与えられた賜物は、一人ひとり違います。誰もが西田牧師のようなことが出来るかと言えば、そうではありません。彼女も言ってました。「わたしとおんなじ人間はおらん。だからわたしは400歳まで生きることになっている」って。

 それはともかく、わたしたちが神さまから与えられたもの、それも一人一人素晴らしいものです。その賜物を、生かしていきましょう。用いていきましょう。大丈夫です。一緒に歩んでくださる方がいるから。復活のイエス様がいてくださるから。

 たとえ今、暗闇で震えていたとしても、抜け出せない苦しみに心痛めていたとしても、見えない明日に不安になっていても、必ず光は訪れます。そのことを信じて、わたしたち歩んでいきたいと思います。

 主は共におられます。