2021年3月14日<大斎節第4主日>説教

「小さなささげもの」

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ヨハネによる福音書6章4~15節

 今、読まれた福音書の物語は、5000人の供食と呼ばれるものです。聖書にはいろいろな奇跡物語やたとえ話が載せられています。その中で4つの福音書すべてに載せられているのは、この5000人の供食だけです。

 そしてその物語の強調点は、少しずつ違っています。他の福音書には、大勢の群衆が自分のもとにやって来るのを見て深く憐れみ、いやし、教え、その結果夕暮れになったので何か食べ物を与えなければという流れがみられます。しかし今日のヨハネ福音書では、「大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て」とだけ書いてあって、その人たちがどのような状況で来たのか、イエス様はその人たちにどう接したのか、何一つ書かれていません。

 しかし一方で、他の福音書には書かれていないことが書かれています。それはアンデレが言ったこの部分です。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。

 さらにこの言葉のすぐ前には、フィリポという弟子が「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」というイエス様の問いに対して言った、「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」という言葉が載せられています。

 今日はそこに心を向けていきたいと思います。少年の存在と、「何の役にも立たない」、「200デナリオンでも足りない」と言い切る弟子の姿です。

 まずこの少年の存在です。彼はどうしてこの場にいたのでしょうか。多分誰かに連れられて来たのでしょう。というのも当時ユダヤでは、子どもは数に数えられないようなそんな存在だったからです。数に数えられないばかりか、大人の中には決して入ってはいけないとされていました。そして彼が自分の手に持っていたパンと魚は、多分主人の所有物だったと思われます。彼は子どもの奴隷として、主人に付き添っていたのでしょう。

 この少年は、大麦パンを持っていました。大麦パンは小麦パンと違って、カチカチです。普通の人は食べませんでした。ではこれは誰が食べるものだったのでしょうか。二つ、考えられます。一つは、家畜に食べさせるものだった。牛などの家畜に餌として与えるのなら、大麦パンでも何ら問題はなかったはずです。もう一つは、少年が食べるために与えられていた。奴隷にはフカフカの小麦パンではなく、カチカチの大麦パンを食べさせておけばいい。そのように考えるのは、それほど不自然なことではありません。でも考えてみてください。もしこの少年が、自分に与えられた大麦パンを差し出していたのだとすれば、これは何を意味するのでしょうか。

 この前の木曜日、3月11日は東日本大震災から10年目の日でした。テレビをつけても、インターネットを見ても、10年前のあの日のことを思い出す。決して明るい色をした思い出ではないし、できれば振り返りたくないことも多くあるのですが、とにかくできるだけ目を背けないようにしようとしていました。

 そのたくさんの情報の中で、わたしの目に一つの言葉が留まりました。それはこのような言葉でした。

 「物は奪い合うと足りないが、分かち合うと足りる」

 少年は、自分の持っているものを差し出しました。周りにいる人数からすると、全く足りないことは明らかです。でも少年は、ただただ分かち合ってほしくて、差し出しました。 少年の差し出すものを見て、あきれて首を振った人たちがいました。弟子たちです。彼らは言います。「そんなもの、何の役に立つだろうか」と。「これだけの人を食べさせるには、どれだけのお金が必要だろうか」と。ある意味、正論です。たった5つのパンと2匹の魚で5000人が満腹になるわけないじゃないか。それよりも何よりも、大麦パンなんて、イエス様の元に持ってくるか?そんなもの失礼じゃないか。

 この弟子の姿、わたしたちの心の中にも同じような気持ちはないでしょうか。これは教会にふさわしくない。これは教会的ではない。そんなもの、神さまは喜ばれない。わたしたちはしばしば、自分の、そして他人のささげ物に対して、そのように思います。勝手に判断してしまいます。でもそれは、神さまの目から見たら違うんですね。イエス様はその小さなささげ物を、大きく用いてくださったのです。イエス様は少年から、ほんのわずかなささげ物を受け取りました。そして感謝の祈りを唱え、みんなに分かち合っていきました。弟子を使って、分かち合っていきました。奪い合えば足りない物でも、分かち合うことによって十分足りる。みんなが満たされるのです。

 わたしたちがおこなう聖餐式も、まさにその分かち合いです。奉献のときに、わたしたちは献金をささげるだけではありません。大切なのは、わたしたちがわたしたち自身をおささげするということです。そして神さまにささげられた供え物が、神さまから与えられるパンとぶどう酒に変わっていく。わたしたちの生きる糧となっていくのです。毎週世界中で、5000人なんてはるかに上回る数の人たちが、こうして養われていくのです。

 教会は、少年が差し出したような、小さなささげ物の集まりです。それを教会が受け入れなくなったときに、教会はもはや人々の養いの場ではなくなるのです。小さなささげ物が生かされるとき、そこに関わるたくさんの人たちに、神さまのお恵みがあふれていくのです。

 今日、礼拝の最後に「分かち合える」という聖歌を歌います。

 「分かち合えるたくさんの見えないもの どんな小さなことさえも分かち合える 目を開かせてくださいわたしたちの主よ

 とても心に残る歌です。わたしたちの信仰の原点は、この分かち合いなのかもしれません。みなさんの心の中にも、きっとイエス様の言葉が聞こえていると思います。

 あなたが差し出したもの、それは他の人から見たら、大したものではないかもしれない。でもわたしはそれを用いよう。

 そう言ってあなたのささげ物に感謝の祈りをささげ、用いてくださるイエス様がいてくださる。そしてわたしたちを大きな愛で養ってくださる。そのことに感謝したいと思います。

 大斎節も半分が過ぎました。あなたは何をささげますか。