2021年3月7日<大斎節第3主日>説教

「ほんとうの教会ってなに?」

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ヨハネによる福音書2章13~22節

 聖書のみ言葉を聞くときに、こんなことを考えながら心に留めたらいいよとアドバイスされたことがあります。それはいろんな立場に自分を置いてみるということです。たとえば今日の物語だったら、このようなことです。

 一つはイエス様と同じ視点に立つというのがあります。今イエス様がこの教会を見られたらどうだろうか。どのように思われるかということを思い描くのです。また自分が弟子の一人だったらどうだろうか、という視点もあるでしょう。福音書の中には弟子の姿は描かれていませんが、自分がそこにいたらイエス様を止めたのか、イエス様に加勢したのか、何もせずにただ見守ったのか、どうだったろうかと考えます。

 そして最後、もう一つの視点は自分が商売人だったらどう思っただろうかというものです。この三つ以外にも、ユダヤ人だったらとか、宗教指導者だったらとか、様々な視点も考えられますが、今日はこの三つの視点を取り上げたいと思います。

 つまりイエス様と同じ目線、弟子たちと同じ目線、商売人たちの目線です。さて、その三つの視点が与えられたときに、自分と、どの人とを重ね合わせるでしょうか。多くの人はイエス様と同じ、あるいは弟子たちと同じ、そのどちらかを選ぶのではないかと思います。といいますのも、今回の場面、イエス様は怒っておられます。怒りをそのまま行動に移されています。怒りの矛先が自分であるはずがない。それは嫌だ。当たり前の感情です。

 しかしわたしは、三番目の視点、商売人としての自分の姿について考えていく必要があると思います。

 神殿で商売をしていたのに、イエス様によって滅茶苦茶にされた人たち。彼らはどんな人たちだったのでしょう。彼らは牛や羊や鳩を売っていました。また座って両替をしていました。何のためにそういうことをしていたのでしょうか。牛や羊や鳩、それはいけにえをささげるためのものでした。過越祭には、ユダヤ中のユダヤ人がエルサレム神殿に来ました。その目的は、決められたいけにえをささげ、献金をささげるためでした。

 ユダヤ全土から人がくるわけです。いけにえの動物を抱えてくる人もいたかもしれません。でも神殿で必要な動物が売られていることを知っていたらどうでしょうか。多少高くても買う人は多くいたでしょう。

 両替は何のためにしていたのか。人々が通常使っていた硬貨は、神殿の献金には使うことができませんでした。たとえば、ローマ皇帝の肖像が入っている硬貨を神殿で使えるか。聖書の他の場面でもありましたが、ユダヤ人にとって肖像が刻んである硬貨を神殿でささげるなんて、考えられないことです。

 そこで登場するのが、両替商なのです。彼らは人々が持っている硬貨を、神殿でも使うことができるユダヤのお金に両替していました。当然手数料は取られたことでしょう。でもユダヤの人たちはそこで両替をしてから献金をしたのです。

 仕方なくなのか、喜んでやっていたのかはわかりません。しかし多くのユダヤの人たちは、そこでいけにえの動物を買い求め、そこで神殿の中でも使える硬貨に両替し、お互いに必要としあっていたわけです。ではどうしてイエス様はそれほどまでに怒りを示されたのでしょうか。

 「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」。これがイエス様の言葉でした。わたしの父の家、それが後半では、神殿という言葉に代わっていきます。わたしたちの耳には、教会という言葉に聞こえてきます。教会とは果たして何なのでしょうか。

 後半の会話でもわかるように、ユダヤの人たちは、神殿=エルサレム神殿、つまり46年かけて建てられた目に見えるものだと考えていました。そこで彼らは犠牲の動物を売り、両替をすることで、あらゆるものを守っていました。律法を遵守することによって秩序を保ち、また神殿としてのステータスも格式も守っていきました。

 しかしイエス様にとって、神殿はエルサレム神殿のことではなく、ご自身のことでした。イエス様は、本当の神殿とは何か、教会とは何か、このことを問われているように思います。

 昨年の今頃、全国の学校に対し休校要請が出され、4月になると全国に対し緊急事態宣言が発令されました。日曜日の午前中になると教会に集い、交わりのときを大切にしてきたわたしたちにとって、聖餐にあずかれないことのみならず、礼拝すらおこなえない、教会に集まることができないということは考えられないことでした。

 しかしその中で、同時に考えさせられたのではないでしょうか。教会って果たしてなんなのだろうかと。目に見える教会は、簡単に想像できます。でも、目に見えない教会、その交わりこそが、真の教会なのではないか。

 イエス様は神殿から商売人を追い出しました。それは形式的に神さまとつながるのではなく、形ばかりを求めるのでもなく、イエス様と直接つながることを求められたように思います。そして真の神殿、教会であるイエス様を通してわたしたちもまた共につながることを求めておられるのではないでしょうか。

 今回、一つ気づかされたことがあります。礼拝を休止したころから、説教動画のYouTube配信を始めました。また週報もご希望の方には毎週送り、それ以外の方にも最低でも月一回は送るようにしました。当初は「礼拝ができない代わり」くらいにしか考えておりませんでしたが、その中に神さまのお恵みを感じるといった声が聞かれました。建物としての教会に来ることができなかったとしても、神さまはその人のことを決して忘れず、愛してくださる。考えてみたら当たり前のことです。

 でもそのことを、改めて知ることができたことは、本当に喜びだと思います。教会に行けない、そして行かない方々ともわたしたちはイエス様を通してつながっている、そしてそれこそが「ほんとうの教会」なのです。

 わたしたちはキリストという教会に連なる一人ひとり、そのことをこれからも感じながら、歩んでまいりましょう。