2023年1月15日<顕現後第2主日>説教

「イエス様に出会う」

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 ヨハネによる福音書1章29~41節

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。今日の箇所、洗礼者ヨハネは自分の方に向かって歩いて来るイエス様を見て、こう語りました。翌日、今度は洗礼者ヨハネは二人の弟子と一緒にいました。そして前の日と同じように歩いているイエス様を見て、「見よ、神の小羊だ」と言います。「神の小羊」、今日はまず、この言葉について考えてみたいと思います。

 この教会の洗礼盤は、礼拝堂の後方にあります。この洗礼盤には、いくつかのモチーフが用いられています。その一つ、洗礼盤の側面を見てみますと、小羊が刻まれているのに気づくと思います。そしてその小羊は、十字架がつけられた小旗を背負っています。この小羊こそが、洗礼者ヨハネの言った「神の小羊」であり、イエス様を指しているのです。

 この「小羊」という動物、これは聖書の中で、特別な意味を持ちます。それは犠牲、いけにえの象徴であり、罪の贖いのために用意すべきものでした。

 洗礼者ヨハネはその小羊という言葉を、イエス様に対して用います。これはどういう意味なのでしょう。「見ろよ、いけにえが歩いているぞ」ということではないでしょう。それよりもヨハネは、常々弟子たちに言っていたのだと思います。本当のメシア、救い主が間もなくやって来るということを。その救い主は、水で罪を洗い流すだけではなく、聖霊によってわたしたちを新たに生かしてくださる。そのような方が来られるのだ。そのことをずっと聞き続けてきたヨハネの弟子たちがイエス様に出会ったときにどうしたのか、それが今日の主題なのです。

 二人の弟子は、歩いて来るイエス様に対して「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエス様に従います。簡単に言うと、これまでずっとついていったヨハネからイエス様に乗り換えたということです。そのとき、ヨハネはどう思ったのでしょう。聖書には何も書かれていませんし、もうこの時点でヨハネは登場しません。つまりここで、ヨハネの役割は明確に終わったのです。イエス様に二人の弟子を引き合わせる、それが彼に与えられた使命なのです。

 教会という場所も、実はそういうところなのです。牧師は一体、何を伝えているのか、それはイエス様のことです。イエス様がわたしたちを生かしてくださるということを伝えています。

 洗礼者ヨハネは、素晴らしい人物だったことでしょう。質素な身なりをし、断食をし、神さまの前に正しくあり続けようとした。また人々には悔い改めの洗礼を授け、神さまに心を向き直すようにと叫んだ。しかし彼の出番はここで終わるのです。彼の目的は、自分に従う人を集めることではありませんでした。そうではなく、人々をイエス様に出会わせる。まことの救い主である方に人々を引き合わせることこそが、彼の望んでいたことなのです。

 教会も、同じです。わたしたちは何のために教会に集められているのか。その第一の目的は、イエス様に出会うということです。主の食卓を囲み、神さまに生かされることを感謝する。牧師に出会うことは二の次だし、ましてや自己主張や何かの批判をするためにここに集められているのではないのです。

 二人の弟子は、イエス様に従いました。イエス様は自分についてくる彼らを見て、こう問いかけます。「何を求めているのか」と。何をしてほしいのか、何が望みなのかを聞いて来られるのです。すると弟子たちはこう答えます。「どこに泊まっておられるのですか」。何だかしっくりこない問答です。

 もしあながたイエス様に出会い、「何を求めているのか」と尋ねられたなら、どう答えるでしょうか。世界のこと、社会のこと、家族のこと、病気の人のこと、健康のこと、お金のこと。数え上げたらキリがないのかもしれません。ご自分で祈りのリストを作成して祈っておられる方も多いと思います。週報の代祷項目を毎日祈られている方もおられるでしょう。そのほかにも、戦争やコロナに限らず、様々なことでわたしたちは祈りへと導かれます。そのような祈りの項目を思い起こすのかもしれません。

 今日の箇所は、ヨハネ福音書における最初の弟子の物語です。この弟子たちが求めたのは、わたしたちが普段祈りの中で願うようなことではありませんでした。また当時のユダヤ人が願っていたような、ローマの圧政からの解放や、クーデターを起こすような革命家の出現でもありませんでした。

 「どこに泊まっておられるのですか」、二人の弟子は尋ねました。この問いかけに、実は大きな意味があります。最初の弟子として、何を求めていったのか。それはわたしたちがイエス様の弟子として、何を大切にしていくべきかということにもつながっていくのです。「どこに泊まっておられるのですか」という問いかけには、「あなたの居場所を知りたい」という思いが含まれています。どういうことでしょうか。彼らはイエス様の居場所を知りたかった。そしてイエス様の居場所を知ることで、彼らは誰かをイエス様に出会わせることができるようになったのです。

 それが宣教なのです。宣教というのは、難しい話をしたり、聖書を理解してもらったり、そういうことではありません。頭で理解するのではなく、体感するものです。実際に教会に集い、主の食卓を囲み、祈りの中で共にいてくださるイエス様を感じる。その働きこそが宣教、イエス様の最初の弟子たちが大切にしたことなのです。

 ヨハネの元を離れ、イエス様に従うようになった二人の弟子の一人はアンデレであったと、物語の最後の方で触れられます。彼はその後、とても大きな働きをします。それは自分の兄弟シモン・ペトロをイエス様に引き合わせたということです。なぜか今日の箇所は41節で終わっています。41節にはこうあります。

 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。

 でも今日読まれなかったその続き、42節にはこうあります。

 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 なぜ聖公会の聖書日課は41節で終わっているのでしょう。もしかしたら、42節の物語、つまり実際にイエス様の元に大切な誰かを連れてくるという一番重要なことは、わたしたち自身のこととして、自分自身の物語として付け加えてほしいと思ったのかもしれません。

 この2023年、心の中に少し目標を置いてみませんか。家族でもいい。近所の人でもいい。教会を見学に来られた方でもいい。ちょっとしたお知り合いでもいい。そのような人を、イエス様の元に連れて行き、会わせてみませんか。

 そして、あなたなりの42節、「あなたはだれだれをイエスのところに連れて行った」というオリジナルの42節を加えることができれば、とてもうれしいことだと思います。