「開け!」
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マルコによる福音書7章31~37節
今読まれた福音書のイエス様の行動を心に覚えるときに、わたしたちにはどのような感情が生まれるでしょうか。
先週の箇所で、わたしたちは「汚れ」について、考えていきました。念入りに手を洗ってからでないと食事をしないユダヤの人たちは、汚れたものに触れることから身を避けていました。自分を清い状態のままに保つ、そのことを第一に考え、汚れた人たちを排除し、汚れたところには近づかない。それが彼らの生き方でした。しかしイエス様はそんな彼らに、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言われるのです。
さらにイエス様はこのようなことも言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」と。外にばかり目を向けていても、それは意味がない。あなたの心から出てくる悪い思いがある限り、人は汚れるんだよ、とイエス様は言われるのです。その言葉を心に留めながら、今日の箇所に目を向けていきましょう。
さて今、どうして冒頭で先週の「汚れ」という内容に触れたかというと、それは今週出てくる人物、耳が聞こえず舌が回らない人と汚れとが密接に関係しているということ。この当時の社会において、とても似た意味を持つことだったからです。というのも当時、ユダヤでは神さまの祝福は目に見える形で与えられると考えられていたからです。健康、長寿、子孫繁栄、財産を得ることなどなど、神さまは正しい人に対して、そのような祝福を与えて報いて下さると考えられていました。ということは、その逆、病気、短命で命を落とすこと、子どもに恵まれないこと、そして貧しいことは、祝福の逆、つまり神さまの罰だと考えられていたのです。何か悪いことをしたからそのような目にあっているんだ、そういう考え方です。
でもこの考え自体は、今も根強く残っているようにも思います。悪いことをすれば神さまに怒られる。そして神さまは悪いことをした人に対して罰を与えられる。多くの人はそのように思っているかもしれません。そしてその考え方は、わたしたちの中にも知らないうちに入っているのかもしれないのです。
「耳が聞こえず舌が回らない」という状態は、とても悲惨なものでした。現代のように福祉の考えがあっても、それでも生きにくい現実があります。2000年前のユダヤの地では、なおさらでした。そのような状況に落とされ、自分の力で生きていくことができないその人は、神さまから大きな罰を受けているのに違いないと人々は考えます。それと同時に、そのような人には関わるべきではないと、みんなで避けていくわけです。先週の「汚れ」と同様、一緒にいたら自分まで汚れてしまう。手を差し伸べてもいけない。誰もその人に関心を向けず、その人の存在を気にしないわけです。
彼は耳が聞こえず、舌が回りませんでした。元々の原語を調べてみると、耳は全く聞こえないわけではなかったようです。何となく聞こえてはいるけれども、その意味が分からなかった状態のようです。また舌が回らないと書かれていますが、音は出せたようです。でも思っていることを伝えることができない。何とももどかしい状態が彼を襲っていたのです。今日は少しわたしたち、この彼、耳が聞こえず、舌が回らない人と自分を重ね合わせてみたいと思います。
わたしたちは完全な人間ではありません。心には人には見せられない部分もあるでしょう。日々、「こんなことしなきゃよかった」、「こういうつもりじゃなかったのに」と思い返すこともあると思います。周りの人たちは、とても立派に見える。みんなすごく素敵に生きているような気がする。教会に通っていると、特にそのように思ってしまうことがあります。そして自分の殻に閉じこもってしまい、耳をふさぎ、声も出せなくなってしまう。
2000年前、耳が聞こえず、舌が回らない人の元に、人々がやって来ました。多分自分の周りに人がたくさん来るなんて、今までなかったことでしょう。彼はとても驚いたと思います。人々はどうして彼の元に来たのでしょうか。何とかして助けてやってほしい」という思いの人もいたでしょう。「イエスという男は本当に病人を癒せるのか」、試してみようとした人もいたのではないかと思います。動機は何であれ、人々は彼をイエス様の元に連れて行きます。そしてイエス様に言うのです。「この人に手を置いてやって欲しい」と。その願いを聞いて、イエス様は何をなさったのでしょう。ただ手を置いたのではありませんでした。このように書かれています。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」。
想像してみてください。聞くこともできず、ちゃんと思いを伝えることもできず、人々から遠ざけられ、そして「汚れている」と烙印を押されている自分の元にイエス様が来てくださったのです。手を置いて祈ってもらうだけでも、満足だったでしょう。病気は癒され、明日を歩く力は与えられたと思います。でもイエス様は、指を両耳に入れ、唾をつけて舌に触れられるのです。その身を重ねることで、彼が持っていた痛み、苦しみ、孤独、涙、すべてを抱え込まれたのです。
そしてイエス様は、「エッファタ」と言われます。これは、「開け」という意味だそうです。少し不思議な気がします。なぜなら耳に対しては「開け」でいいのですが、舌について言えば、何だか不自然です。それは、この「開け」という言葉は、決して物理的な意味だけではないからです。彼にとって閉ざされたものは、たくさんありました。人々との間には「汚れ」という壁がありました。自分の力で生きていこうにも、その道の先は行き止まりでした。暗闇の中でもがくしかない、それが彼の現実でした。しかしそこにイエス様が来てくださった。そして「開け」、その言葉によって、すべてのことから解放されたのです。そのイエス様との出会いによって、彼の道は開けていった。それは今日、この言葉を聞いたわたしたちにも同じように届けられていることなのです。
イエス様はわたしたちにも身を重ね、わたしたちのすべての思いを感じ取り、そして背負ってくださいます。その上で、わたしたちにも光を与えてくださる。道を開けてくださるのです。
イエス様によって癒された彼を見た人々は、口止めをされていたにも関わらず、イエス様との出会いを言い広めていきました。きっと癒されたその人自身も、大いに広めていったことでしょう。伝えずにはいられなかったのです。
わたしたちがどんな人間であれ、たとえいつも正しい人ではなかったとしても、イエス様は導いてくださいます。「開け」というその言葉を何度も何度でも、イエス様は伝え続けられます。その声を聞き、共に歩んでまいりましょう。