2019年10月6日〈聖霊降臨後第17主日〉説教

信仰を増してください
 ルカ17:5-6

  司祭 ヨハネ 井田 泉
   奈良基督教会にて

 この前の日曜日の9月29日、わたしたちは4人の方々の堅信式に立ち会いました。その堅信式の中に「洗礼の約束の再誓約」という箇所がありました。
 「あなたは天地の造り主、全能の父である神を信じますか」という問いかけに対して4人の方は一人ひとり「わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます」と答えられました。
 「あなたは、この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じますか」
 「わたしは、この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じます」
 「命の与え主、聖霊を信じますか」
 「わたしは命の与え主、聖霊を信じます」
 洗礼のときにすでにそうであり、堅信式のときにもう一度そうなのですが、その場面に立ち会うとき、わたしはそこに奇跡が起こっていると感じます。
 「わたしは、信じます」。
 父と子と聖霊なる三位一体の神を、わたしは信じます。

 このようなことをただ心で思うだけではなく、人前で、声を出して告白することは尋常なことではありません。何かがなければ「信じる」ということは起こらなかった。何かが働かなければ「わたしは信じる」という告白は起こりえなかった。人間の力によっては、人の努力によっては不可能なことを、神さまがしてくださった。神さまがこの一人ひとりのうちに信仰を育んでそこまで至らせてくださった。そのことを思うとき、感謝の涙が胸の中に溢れてきます。1週間たって、昨夜はそんなことを感じていました。

 ところで、イエスさまの弟子たちも最初から信仰がはっきりとあったわけではありません。イエスに招かれて弟子となった人たちもまた、信仰を育てられていったのです。
 先ほど朗読したルカ福音書の最初にこう言われていました。

「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき」ルカ17:5

 使徒たちと言われるのは、ここでは12弟子のことでしょう。イエスさまこそは、この人たちのうちに信仰が育つために、祈り、言葉で教え、行動で示してこられたのです。そしてある段階に達したとイエスが判断されたとき、彼らを宣教に遣わされました。使徒たちは福音を告げ知らせ、人びとの病気を癒しました(ルカ9:6)。

 けれどもその弟子たち、使徒と呼ばれる人たちは、しばしばイエスさまから信仰のことで叱責を受けました。
 あるとき、弟子たちはイエスとともに舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしました。イエスは舟の中で眠ってしまわれました。そのうちに突風が吹き降ろしてきて、舟は水をかぶって危うくなり、弟子たちは恐怖にかられてイエスを起こしました。

「先生、先生、おぼれそうです。」ルカ8:24

 イエスは起きると風と波を静めて、弟子たちに言われました。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか」8:25

 弟子たちは叱られたのです。

 またこういうこともありました。弟子たちがある父親から、一人息子に取りついた悪霊を追いだしてほしいと頼まれたのですが、どうしてもできませんでした。そこに戻ってこられたイエスは父親の訴えを聞いてこう嘆かれました。

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」ルカ9:41

 弟子たちはここでもイエスさまに叱られました。このよこしまな時代にあって、弟子たちはイエスに従って正しいこと、真実なものを示していかなければならないのに、まったくそれができていない。あなたがたは信仰のないよこしまな時代の中に埋没してしまっている。もうがまんがならない。こう叱責されてしまったのです。
 しかし叱責されることはさいわいです。それはイエスに愛されているしるしなのです。

 弟子たち、使徒たちは、何度も自分たちの信仰のなさ、信頼のなさ、愛のなさを感じて、このままではいけないと強く思ったのです。それでイエスにはっきりと今日、願いました。

「わたしどもの信仰を増してください。」

 この願いをわたしたちはどう聞くのでしょうか。自分には関係がない、と思うか。それとも、これはわたしの願いだ、と思うか。わたしの願いだ、と思う人はさいわいです。イエスさまそれに応えて、わたしたちの信仰を必ず増し加えてくださるからです。
 しかしこのときのイエスの答は意外なものでした。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」17:6
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があるなら」

 突き放したような言い方です。でもここで立ち止まってみることにします。

 「からし種一粒」これはもっとも小さいもののたとえです。けれどもこれが成長して大きくなれば、空の鳥がその枝に巣を作るほどになる(ルカ13:19)。だから、大きなことを求めず、「からし種一粒」ほどの、小さくても確かな信仰を持て、決意して信じなさい、と言われたのかもしれません。辛(から)いからしです。外見ではなく、内側に、あなたの奥にぴりっと辛い信仰があるように。

 「からし」でふと思い出すことがあります。わたしがまだ30代だった頃、30年以上も前です。東京教区と韓国のソウル教区の青年交流協議会というのがあって、わたしはそこで聖書研究をしてくれと頼まれて参加しました。到着した最初の日から夜中までどんちゃん騒ぎです。韓国の青年が青い小さな唐辛子を勧めるので、1個食べました。効果てきめんです。わたしは翌朝からずっとおなかの具合が悪く、10日ほどの韓国滞在中ずっと困っていました。大変な効果です。小さくても大きな影響を与えるからしです。

 ところで信仰とは、わたしの中だけに持っているというものではありません。神さまとの関係、イエスさまとのつながりを意味するものです。わたしの中に、たとえごく小さくても神さまを思う切なる思いがあれば、イエスさまに呼びかけ信頼する祈りがあれば、それで十分だ。その小さな信仰が、あるときには大きな業に、奇跡のようなことにつながる。
 あるいはイエスは、こう言われたのかもしれません。すでにわたしはあなたの中にからし種のような信仰を蒔いた。それがあなたの中に宿っているのだから、それを信頼しなさい。人と比べて信仰が大きいとか小さいとか、信仰歴が長いとか短いとか考える必要はない。心配するな。わたしが与えたその信仰の種を信じて大切にしなさい。それがあなたを生かす。

 事実、イエスは使徒たちの信仰を気遣い、それを育もうとして心を砕いておられました。やがて重大な危機が迫ったとき、イエスはペテロにこう言われました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31-32

 生きていけないほどの悲しみ、打撃を経験して、信仰を失いそうになるときが来る。しかしそのあなたのためにわたしは、あなたの信仰が無くならないように祈った、とイエス言われました。わたしが祈った、と。

 イエスはわたしたちの信仰を守ろう、育もうとして祈っておられる。わたしたちのために、信仰が無くならないように祈っていてくださる。イエスの祈りに支えられて、これまでがあり、今があり、明日があるのです。
 自分の信仰は自分だけのものではない。イエスが愛して育てていてくださるものです。だから大切にしましょう。同時に人の信仰を躓(つまず)かせることのないようにしましょう。イエスが大切にしておられるのですから。

 祈ります。
 主イエスさま、わたしたちの信仰を増し加えてください。大きな立派な信仰ではなく、あなたが言われたように、からし種一粒ほどの信仰を与えてください。けれども漠然とした信仰ではなく、決意してあなたに信頼し、真心をこめて祈る信仰を与えてください。あなたがわたしたちの信仰を育んでくださることを信じます。わたしたちもまた、自分の信仰だけではなく、人の信仰が育まれるように心を砕く者にしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン