2022年2月20日<顕現後第7主日>奨励

「あなたがたは敵を愛しなさい」ダビデ佐藤充神学生

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 ルカによる福音書6章27~38節

 神学校に来る前、ケアマネージャーの仕事をしていたとき、別の福祉系の資格を取るために勉強した中に「バイスティックの7原則」というものがありました。これは様々な福祉サービスの現場で、ソーシャルワークという相談業務を行う際、基本になるものだと言われています。アメリカのバイスティックと言う方1950年代に提唱した7つの原則なのですが、その第一原則に「個別化の原則」というものがあります。これはクライエントつまり対象者を他の方と似た問題や病気を抱えていたとしても、人それぞれ異なるので、ラベリングというような、分類分けをしたり、同じ様に対応すればよいと決めつけないというものです。

 私たちも、日々の歩みの中で、人に対して先入観や偏見を持ってラベリングや、グループ分けをしていることはないでしょうか?周囲の人に対して、「あの人は自分と合わない」とか「こういうタイプの人は苦手だ」と決めつけてしまう、まさにラベリングをしていることはないでしょうか?

 今日の福音書の中でイエス様は『あなたがたは敵を愛しなさい。』という言葉を2度もおっしゃっています。2度も繰り返しておっしゃっているという事は、それだけイエス様はそこにいた弟子達や群衆に「敵を愛しなさい」ということが大事だとお伝えになったのだと思います。そして、今ここにイエス様によって集められ、イエス様の福音に与っている私たちにもまた、イエス様は「敵を愛しなさい」と語りかけられておられるのだと思います。じゃあ、イエス様が大事だとおっしゃっているのだから、頑張って敵を愛しましょう!と言っても、簡単に敵を愛せるようになれないかもしれません。

 まずこの「敵」とはいったい誰の事なのかご一緒に考えてまいりましょう。私たちは自分が過去に人から受けた苦い思いや、辛い経験と重ねて合わせて、似たよう人がいると「あの人は嫌だ」とか「あの人は苦手だ」とか、そして「あの人は敵だ」というようにラベリングをしてしまうことがあります。「敵」という箇所を、聖書の原文で調べたところ、「憎む」や「敵対する」という意味に加え「神に反対する」という意味がありました。つまり、たとえ相手がどんな人だとしても排除してしまうのではなく、それぞれが神様の前に置かれた存在同志なのです。「この人は敵だ」「あの人は見方だ」と決めつけてしまうというのは、実は私たち自身の中から起こっており、その考えに縛られると、かえって自分自身を窮屈にしてしまうことがあります。

 冒頭にお話した資格を取った時のお話を少しさせて頂きます。新たな資格を取ろうと思ったきっかけは、今思うと、仕事でさらに人から評価されたいという思いや、資格をいくつか持っていると立場が良くなるといった思いからでした。新たな学びをしてスキルアップをしようとか、お年寄りに対してより良い対応につなげようという思いはあまりないままに、資格というラベリングを自分にしたかったのでした。ですから、通信教育で毎月レポートを出したり、受験対策をしたりととても大変だった上に、日常の業務でも様々な課題が重なって疲弊してしまっており、結局社会福祉士という目標の資格を取得した頃には、仕事に対する情熱も余力も残っていませんでした。そして結局、福祉の現場から一旦退くことにし、その職場を退職しました。退職してから改めて自分の土台はどこなのかと考えていく中で、資格や人の評価ではなく、自分を愛し導いて下さるイエス様の存在が自分の土台だった事を思い出せ、自分が受けた愛をもって、改めて福祉の仕事をしようと思えるようになりました。

 では、「愛する」というのは、一体どんなことなのか改めて見ていきましょう。「愛する」という言葉は、日本に初めて聖書が伝わってきたころ、キリシタンたちは「ご大切に」と訳しました。本田哲郎神父が訳された聖書の中ではここを『あなたたちに敵対してくる人たちを大切にし』と訳されています。「愛する」ということは、自分の価値観や思いを越えて、相手のことを考え、周りの人の事を想像し、大切に思うことと考えると分かりやすいように感じます。また、「あなたがたは」と複数形の言葉でイエス様が問いかけておられるように、決して一人の力や、自分の思いだけではなく、周りの人達と一緒に、イエス様の思いを見ていくことなのです。個人的な努力や責任に求められているのではなく、共同体として「愛する」事が求められています。一人一人それぞれは完璧にはなれませんが、イエスを交えて周囲の人と共に繋がり合い、認め合い、赦しあう事が大切だと言われていると考えます。

 今日の特祷では「愛は平和とすべての徳のきずなであり」、そして「どうか聖霊を送り、この最もすぐれた賜物をわたしたちの心に注いでください。」と祈りました。助け主なる聖霊が私たちに送られるとき、最もすぐれた賜物である愛を受け、愛する者とされていくのだとわかります。

 また、35節でイエス様は『敵を愛しなさい』と言われた後『たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる』とおっしゃいました。人に対して報酬を期待するのではなく、神様が見ていて下さるという、神様に期待する事が大切なのです。この報いや恵みは私たちが何かをがんばったから受けられるというのではなく、すでに私たちはイエス様の憐れみによって多くの愛を受けた者であることを心に留めておくことが大切でしょう。

 冒頭の7原則を提唱したバイスティックは、ソーシャルワークについての教授ですが、教えていたのはアメリカのワシントンDCにあるカトリック大学という所で、彼はイエズズ会の神父でもありました。彼は4番目の原則として「受容」つまり受け止め方についてもまとめています。その中で

 『「たとえ、社会的な問題がある人でも、成功した人とまったく同じように、神の形になぞらえて創られた同じ人間である。また、天にましますわれらの父から永遠の愛を受けた申し子であり、天国を受け継ぐものである。」

 「個人がいかなる特徴を持っていても・・・・神から与えられた尊厳を人から奪う理由にはならないのである。神の意志に背いて振舞うとき、彼は自分の尊厳にしたがって行動しているのではないからである。」』と記しています。

 人に対して、敵だとか味方だと決めつけてしまうのではなく、全ての人が神によって作られた尊い存在だとして受け入れ、神様がその人に尊厳を与えておられ、大切に思っているという事を覚えていきたいと思います。「あながたは敵を愛しなさい」という言葉を通して、イエス様は私たちと神様との関係について伝えたかったのだと考えます。後半の36節で『あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。』とありますが、イエス様が伝えようとしているのは、私たちが「敵を愛し」「善い行いをする」ことで、その報いとして恵みを受けるということではなく、父である神が私たちを憐れみ深く愛して下さっていることです。そして、イエス様自身が、私たちへの愛によって、頬を打たれ、衣服を差し出し、命まで差し出されたことによって、私たちに愛を表してくださいました。だからこそ、私たちも敵を愛せるのでしょう。私たちが何かをするから、「恵み」を受けることができるというのではなく神を愛し、隣人を愛するには神様に頼ることが大切だという事を忘れずに参りたいと思います。