2021年10月3日<聖霊降臨後第19主日(特定22)>説教

神が結び合わせたもの

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マルコによる福音書10章2~9節

 わたしたちクリスチャンは、聖書という書物を大切にしながら信仰生活を送っています。みなさんの中にも、毎日少しずつ聖書を読むという方も多いと思います。わたしも毎年、すべての箇所が網羅されるように、計画表を作って読んでおります。

 面白いもので、毎年同じように読んでいるにもかかわらず、そのときの気持ちや置かれた環境によって、み言葉がまったく違ったものとして聞こえてくることがあります。またいつもは読み飛ばしていた言葉が、急に心に迫ってくることもあります。

 また聖書を読んでいると、正直、心が苦しくなることもあります。例えば旧約聖書にあるイスラエルの歴史のところです。歴代の指導者たちが神さまのみ心にかなわなかったことなどは、人間の弱さを知ることができて、それはそれで意味があるものだと思います。しかし「敵を滅ぼす」という箇所は、どうしても心に素直に入っていきません。イスラエルが選ばれた民であるということを旧約聖書は強調しているのでしょうが、その前提があったとしても、なかなか納得できるのものではありません。

 それは、旧約聖書に限ったことではありません。先週のイエス様の言葉、覚えておられるでしょうか。

 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。

 イエス様の言葉そのものを思い起こすときに、わたしたちの心には恐れが生じます。しかし実際に海に投げ込まれるかもとか、手や足を切り落としたり、目玉をえぐり出さなきゃと思うには至らないことが多いんです。それは「小さな者の一人をつまずかせる」こととわたしたちとは、関係ないと考えてしまうからです。ところが今日の箇所は、どうでしょうか。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」、この言葉はわたしたちの心に、鋭いナイフのように突き刺さります。それはわたしたちの周りに、あるいはわたしたち自身に、思い当たるふしがあるからです。決して人ごとでは済まされない言葉だからです。

 果たしてイエス様は、この場面で離縁することを罪に定めたのでしょうか。それはダメだ、それは神さまが許さないときつく言われたのでしょうか。

 わたしたちが聖書を読むときに、気を付けないといけないことがあります。それは聖書の根底に流れている神さまの思いをいつも感じながら読むことです。たとえばお母さんが子どもに何か伝えるとします。たまには子どもにとってうれしくない小言もあるでしょう。でもそんなときでも、「ママは僕のこと、ちゃんとわかっているから」とは、「わたしのこと、いつも大好きだって言ってくれているから」ということが伝わっていたら、少し嫌なことだったとしても、子どもには母の愛と共に、正しく言葉が伝わるでしょう。

 しかし、その言葉だけが独り歩きしてしまったならどうでしょうか。実はキリスト教はその歴史の中で、聖書の解釈によって多くの人たちを平気で傷つけてきました。「聖書にこう書いてあるから」、そのことだけを理由に、たくさんの人を排除し、人を人として認めず、時に攻撃をしていきました。

 たとえば以前の聖書には「らい病」という表記がありました。その病は神さまからの罰だと考え、その病にかかった人を隔離してきました。同性愛の人は汚れている。人は男と女にしか造られていないはずだ。神は7日間で世界を創造されたのであって、進化論などバカげてる。酒やたばこは絶対ダメだ。女性の司祭などありえない。聖書のある一部だけを取り上げていくと、そうとも取れるかもしれません。でもそれは、はっきり言って「言葉尻を捕らえている」に過ぎないのです。一番肝心なところが抜けているんです。それは根底に流れる神さまの思いです。神さまは不完全なわたしたちを愛しておられる。その故にイエス様が遣わされたというそのことが置き去られているのです。

 今日の福音書、イエス様はなぜこのような会話をされたのでしょうか。それはファリサイ派の人がこのように聞いてきたからです。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と。それもイエス様を「試そうとして」聞いたとあります。

 彼らの罠は巧妙でした。離縁することが律法に適っているとイエス様が答えれば、それは神の教えに背いていると言い、適ってないと答えれればモーセの言うことに反する、ということになります。どちらの答えを言っても、突っ込まれてしまうのです。

 でもイエス様の答えは、彼らの思惑のはるか上を行っていました。イエス様は言われます。「それはあなたがたの心が頑固だからだ」と。ファリサイ派や律法学者といったユダヤ教の指導者たちは、ありとあらゆる「ダメなこと」を指摘していきました。

 様々な制約を人々に与え、罪を犯した人を排除していく。旧約聖書には十戒という掟があります。彼らはそれを、「~してはいけない」という風に読んでいきました。あるとき律法の専門家がイエス様に聞きます。「この十戒を含む律法の一番大事なところはなんですか」。するとイエス様はこう答えられます。「神さまを愛しなさい。自分と同じように隣にいる人を愛しなさい」。聖書の掟というのは、校則や法律などのような禁止命令ではなく、「こうしようよ」という能動的なものです。神さまの思いは、わたしたちは鎖でつながれた奴隷のように生きるのではなく、そのままの姿で生きていく、それに尽きるのです。

 離縁してはいけない。人を殺してはいけない。だましてはいけない。人を傷つけてはいけない。さまざまな「いけない」という掟を聞くたびに、わたしたちの心は委縮します。なぜならわたしたちは、様々なところで神さまに背いていることを知っているからです。でも、だからこそ、イエス様が必要なのです。不完全で弱く、どうしようもないわたしたちだからこそ、すがらなければ前を向けない。イエス様の十字架の死に寄らなければ、暗闇から抜け出すことなどできないのです。

 聖書は、人を裁くために与えられたものではありません。神さまはわたしたちを滅ぼすために、聖書を通してわたしたちにメッセージを語られているのではないのです。そうではなく、わたしたちを生かすためなのです。わたしたちはこのままでいい。どんなに罪深く、神さまの言いつけに背いたとしても、神さまはそんなわたしたちを愛してくださるのです。

 その神さまの愛をいつも心に留めながら、聖書の言葉に聞いていきましょう。いろんな箇所があります。心が軽くなるときも、少し沈んでしまうときも、そして耳をふさぎたくなるときもあるでしょう。でもその根底には、いつも神さまの愛があふれていることを、忘れずにいたいと思います。