2022年3月27日<大斎節第4主日>説教

「おかえり!と言われて」

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 ルカによる福音書15章11~32節

 本日の福音書は、有名な「放蕩息子」のお話、主イエスが語られた数々のたとえ話の中でも、神さまがどういうお方であるかがいちばん分かりやすく、イメージしやすく描かれている箇所です。この物語が教えてくれる神さまは、わたしたち一人ひとりを「待っていてくださるお方」です。わたしたちが、たとえどんなであっても、どれほど離れていようとも、神のことなど完全に忘れ去っていたとしても… ずっと戻ってくるのを信じて、両腕を広げて待ち続けてくれる親のような存在として描かれています。

 よく考えてみれば、わたしたちを待っていてくださるお方という神さまのイメージはここで初めて出てきたわけではありません。先週(大斎節第3主日)の福音書では、実のならないイチジクの木のたとえが語られました(ルカ13:6-9)。なぜかぶどう園に植えられた一本のイチジクに農園の主人は実が成るのを期待して待ち続けること3年。主人はもう見限ってその木を切り倒そうとしますが、園丁から、これから肥料をやり、精一杯世話をするからあと1年待ってくれと懇願され、待つことを決意します。

 また、先々週(大斎節第2主日)の福音書では、主イエスは神さまの思いを次のように代弁されました。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(ルカ13:34)。自分の羽の下から一目散に走り去っていくヨチヨチ歩きの雛たちの後ろ姿を見つめながら、「わたししかあなたたちを守れない。さあ、戻っていらっしゃい」と声を張り上げて、雛たちが振り向くのを待つお母さん鳥の姿です。

 なぜ、神はこれほどまでにわたしたちを待とうとなさるのでしょうか。それも身の程知らずで、無鉄砲で、自己中心的で、結局自分ひとりで生きることもできないわたしたちをです。待ったところでどんなメリットが神さまにあるのでしょうか。子どもたちが戻ってきたら話を聞いてもらおう、孤独の苦しみから解放されたい、経済的にも援助してもらえるかもしれない、自分の将来のことも話し合いたい、パソコンの使い方を教えてもらおう、車でどこかへ連れて行ってもらおう、あれをしてもらおう、これをしてもらおう。そういった待つ側にとっての益(人間にはありがちですが)は神にはありません。理由はないのです。ただただ、抱きしめたい。大丈夫だよ、よく戻ってきた。おなかいっぱいお食べ。大好きだよ、愛しているよ。それだけなのです。こんな親は地上にはいません。それに近い人がいたとしても人間である限りは寿命があり、普通は子どもより先に死んでしまいます。子どものことを忘れてしまうことすらあり得ます。でも、神さまはそうじゃない。神は愛そのものだからです。無条件に、手を広げてわたしたちの帰りを待っていてくださるのです。

 クリスチャンであるわたしたちは、みんな放蕩息子、放蕩娘であり、神さまのもとへ帰ってきた者です。わたしは、牧師家庭に生まれ、生後すぐに洗礼を受けたいわゆるボーン・クリスチャンですが、今日の物語に出てくる息子とそっくりな経験をしました。生まれ育った小さな牧師館は、教会の2階部分にあり、それはそれは窮屈な環境でした。よく知らない人が家族の食卓に座っているのはしょっちゅうでしたし、教会の人たちはわたしと妹のことを生まれた時から、いや生まれる前から知っていました。とてもかわいがられ、たくさんの人に育てられたような良い思い出もありながら、思春期になると、色々と疑問に思い始めます。そもそもなんでわたしは教会へ行かなければならないんだろう。礼拝に出るのは当たり前だし、礼拝堂の掃除をするのも当たり前です。そして、聖書に書かれた神さまを信じるのも当たり前。わたしは家を出ました。親の莫大なお金を使って、高校1年生の時一人アメリカへ留学したのです。1988年、バブル絶頂の頃で日本は浮かれ、わたしも浮かれていました。家族と教会と離れて生きられる。神さまなんて必要ない。自分を試したい一心で海を渡りました。最初はもちろんひどいホームシックとカルチャーショックに苦しめられましたが、徐々に英語にも生活にも慣れ、日曜日には昼過ぎまで寝ることのできる幸せに身を包みました。誰にも「礼拝始まるよ~!」と起こされない。食前のお祈りだってしなくて平気。これでいいんだと自信を取り戻し、立派に自立できているかのような錯覚に陥っていた16歳のある日、突然、涙が止まらなくなりました。具体的に何があったのかは覚えていません。ただただ、心の中が空っぽで苦しくて息ができないような状態になった。まるで、何日も何日も食べ物も飲み物も取っていないような、心の中がそんな状態である自分に気づきました。その時、ふと顔を上げ、我に返ってつぶやいたのです。「教会へ行こう。」

 ある日曜日、学校の寮の近くの小さな聖公会の教会へおそるおそる行ってみました。年配の白人のおじいさん、おばあさんが多く、なんだか冷たい感じがしました。牧師の説教はほとんど意味が分からなかったし、特に誰も声をかけてくれませんでした。いや、声をかけられる前に、礼拝後すぐ外へ出たような気もします。でも、その門を出たその時、おなかの中にズーンと響いてくる温かい声がありました。「お帰り。待ってたよ。もう大丈夫だよ。」とめどなく涙が溢れました。その日を転機に、わたしは少しずつ、少しずつ変えられていきました。その時通った教会は、今思うと本当に面白くも楽しくもない教会でしたが、じっくりと生みの親である神さまに向き合う機会が与えられたのです。イエスさまが、一生懸命、実のならないわたしという木の周りを掘って、ご自身が肥やしとなってわたしのために死んでくださったことが分かりました。素直に放蕩の限りを尽くしおなかの空ききった自分を認め、イエス様といういのちのパンなしでは生きられないことに気づかされていったのでした。

 おなかが空いたら、自分の弱さ、愚かさを思い知ったら、わたしたちは神さまのもとへ戻ることができるのです。そのきっかけをイエスさまが作ってくださり、その時を教えてくださいます。そして、神さまの「お帰り」という声を聞いていのちのパンをいただくとき、わたしたちは新しく創造された者となります。今日の使徒書(IIコリ5:17)にある通りです。さて、新しく創造されたわたしたちはどのように生きるのでしょうか。今日の福音書の放蕩息子がこの後、どう生きたかは聖書には何も書かれていませんが、少し想像できる気はします。おそらく、少しでもこのお父さんに近づけるように生きようとしたのではないでしょうか。見返りを求めず、神を愛し、自分のように人を愛すること、おなかが空ききった人を迎え入れ、いのちのパンを分かち合うことが少しずつできていったのでないか。そして、もしかするとそんな彼の生き方が、物語の後半で悪く描かれているお兄さんのカチコチになった心を少しずつ解きほぐしていったのでないか、そんな風にわたしは想像します。

 大好きな歌に、「You Raise Me Up」という英語の歌があります。タイトルを直訳すると「あなたはわたしを立ち上がらせる」という意味です。「疲れ果てたとき、苦しみもだえるとき、わたしはあなたを思い出す。あなたが支えてくれるから山の上に立つことも、嵐の海を歩くこともできる。いのちが飢えるときも、あなたの存在はわたしを驚きで満たし、永遠を垣間見させてくれる。あなたのおかげで、わたしは強くなれ、そして自分を超えることができる。」そんな心を打つ歌詞です。でも、歌詞はそこで終わってしまっています。

 自分の弱さを認め、神さまのもとへ帰り、今の自分を超えることができたなら、もっと強くされたなら、そこからわたしたちはどう生きるのでしょうか。イチジクの木にようやく実が成ったなら、わたしたちはそれをどう使うのでしょうか。今年度の奈良基督教会の年間聖句は「光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)です。希望を見出し、光の子とされ、立ち上がらされた今、神さまのために自分にできることは何でしょう。残る大斎節の日々に考え続けていきたいと思います。