2023年3月19日<大斎節第4主日>説教

「神の業が現れる」

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 ヨハネによる福音書9章1~13、28~38節

 わたしたちは悪いことがおこると、「あれ、なんか前に悪いことしたっけ?」と思い返す。まあそのようにして、自らのおこないを振り返るということは大事なことでしょう。けれどもそれだけではなく、他人までそのものさしで計ってしまう+ことさえあるのです。「バチが当たったんだ」、その一言で、つらい思いをしている人を評価してしまう。そのようなことはわたしたちの間にも見受けられるのですが、2000年前のユダヤにおいて、その考え方は顕著にみられていました。

 イエス様は弟子たちと共に、歩いていました。そこに、生まれつき目の見えない人がいました。「目が見えない」ということ、それは悲惨な状況でした。現在も目が見えないことは、とても大変です。では2000年前はどうだったでしょうか。

 その状況は、今よりももっとひどかったと言わざるを得ません。それはインフラの問題がまずあります。バリアフリーの建物や点字表示など、今は多く見られるそれらのものが、当時はほぼ見られませんでした。そして何よりも違ったことは、周りの人たちがその目の見えない人に対してどう思っていたのか、ということでした。目が見えない人を「かわいそうに」とか「大変だなあ」という気持ちで見ていたのではありません。「あいつ、何をしでかしたんだ?」、「あの親、どんなことをしたんだ」という目で見ていたのです。

 それは、弟子たちのこの質問にも現れています。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と弟子たちはイエス様に尋ねました。多分弟子たちは、何にも悪びれもせずにその質問をイエス様にしたのでしょう。周りの人たちはみな当たり前の様に、目の見えない人に対して「誰の罪のせいで?」と言い合っていました。その会話の中には、その人に対する憐れみの気持ちはほとんどなかったのだと思います。

 あくまでもその人は「罪人」であり、その人に関わることは、自らも汚れてしまうことを意味していました。だからできるだけ、視線を避け、存在を無視し、知らないふりをして道の向こう側を歩いて行きました。

 ルカ福音書には「善きサマリア人のたとえ」という物語が書かれています。この物語の中で強盗に襲われた人を見て、祭司とレビ人という神殿で重要な役割を担う人は関わらずに道の反対側を歩いたとありました。わたしたちは思います。何て薄情なんだろう。優しく声を掛けてあげればいいのにと。でもそこには大きな理由があったんですね。彼らは、汚れてはいけなかったのです。神殿での大切な仕事のために、自分の清さを保たなければいけなかった。だから人々の間で「罪人」とされていたり、血をながしていたり、悲惨な状況にあるような人とは関わらなかったのです。それと同じことが、社会の様々な場所で、当たり前のようにおこなわれていたのです。

 闇の中にいる人は、ずっと闇の中。どこにも抜け出すことができません。罪人というレッテルを貼られ、生き続けていかなければならない現実。その中で、また、よく耳にする会話が聞こえてくるわけです。

 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。どっちでもいいだろう、そんなこと。悲惨な状況に変わりはないのだから。彼はそう思ったかもしれません。しかし、暗闇の中でその問いに答える声は、今までとは全く違った言葉を彼の耳に伝えます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。そしてイエス様は、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗られました。さらにシロアムの池に行って目を洗うように伝えます。その結果、彼はイエス様によって見えるものとされました。

 そのときの周りの人たちの反応を見ると、先ほどお話ししたことの裏付けとなるような状況がみえます。聖書にはこのように書かれています。

 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。

 近所にいたのに、よっぽど関心がなかったのでしょう。その人の元に神さまの業が現れた、顕現したその中で、周りの人たちはあっけにとられていたのです。

 さてわたしたちは、この物語をどう読むべきなのでしょうか。自分を「目の見えない人」に置き換える。これが一番心にスーッと入る読み方だと思います。暗闇の中、孤独や心の痛みと戦っている自分。そこにイエス様が手を差し伸べてくださる。その瞬間に光が与えられ、目が開かれる。きっと多くの方が、同じような経験をされてきたことだと思います。自分の力で生きることができないときに、自分の小ささ、無力さを感じるときに、そして神さまにすがるしかなくなったそのときに、神さまの業が現れる。その経験はとても大切なものです。

 しかし同時に、今日の箇所でとても気になることをお話しします。今日の箇所はヨハネ9章の38節までです。聖書をお持ちの方は、ぜひ開けてください。38節をお読みします。

 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

 このように中途半端な形で終わっています。しかし聖書日課では「ひざまずいた」と変更されています。その直後の39節の言葉を無理に削除した結果、言葉を変更せざるを得なくなったのです。では続きの39節には、どう書いてあるのでしょうか。

 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

 わたしたちは実は、この言葉にも心を留めないといけないのです。わたしたちは確かに、神さまの愛によって、イエス様が遣わされたことによって、見える者とされます。しかしそこで終わってはいけないのです。

 自分の力で見えると思った瞬間、実は見えない者となるのです。「あいつは見えていない」と批判したときに、イエス様はその心を裁かれるのです。見える者の集まりであるはずの教会が、実は見えていない。それはまずいので、聖書朗読から削除された。そういうことかどうかはわかりません。

 しかしわたしたちは、神さまによってのみ、見えるものとされているということを、いつも心に留めていきたいと思います。イエス様が導いてくださらなければ、歩くことができない自分を思い、歩んでいきましょう。