2021年7月4日<聖霊降臨後第6主日(特定9)>説教

「人間の思いと神さまの思い」

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マルコによる福音書6章1~6節

 今日の福音書には、イエス様が故郷に戻られたときの話が載せられています。イエス様はガリラヤのナザレという小さな村の出身でした。大工の子として生まれ、その少年時代、青年時代を家族と共に過ごしていました。イエス様が活動を開始したのは、30歳ぐらいのときでした。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、ガリラヤで伝道を始めます。ガリラヤ湖では漁師を弟子にし、またカファルナウムという町を中心にして、病気の人をいやしたり、福音を宣べ伝えたりしていきます。

 今のようにテレビやインターネットがなかったとしても、イエス様のうわさは瞬く間に広まっていったことでしょう。実際に聖書にもこのように書かれています。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」と。

 しかしイエス様がナザレに戻ってきたとき、「この人は大工ではないか」という否定的な言葉が吐かれました。なぜナザレの人たちはイエス様を受け入れることができなかったのでしょうか。

 彼らは少年時代、青年時代のイエス様をよく知っていたから。それはあると思います。大工だったはずなのに預言者のように話していることに違和感を覚えたのでしょうか。確かにこれはあると思います。でもそれだけだと、今日の福音書はわたしたちの今とは遠く離れたことになってしまいます。では何が理由でしょうか。わたしはこう思います。彼らナザレの人は、自分の求めるメシア像を作り上げていたのではないかと。

 メシア、つまり救い主が来ることを待ち望む。それは当時のユダヤ人が切に願っていたことでした。ローマの圧政から逃れたい。日々の苦しい暮らしから抜け出したい。いろんな思いで人々は、メシアが来るのを待ち焦がれていました。自分たちを救ってくれる救い主、そのイメージはいろいろとあると思います。わたしたちの心の中にも、それぞれいろんな姿が思い描かれます。牧師であれば、自分たちの間から出た身近な人でも受け入れられるでしょう。しかし救い主ともなれば、そうはいきません。やはり自分たちとは異次元の、手の届かないような存在なのではないでしょうか。

 彼らにとってイエス様は、身近でありすぎるが故に、メシアとは無縁の人物でした。彼らの描くメシア像とは合致しない人でした。だから受け入れられなかった。でもこの「自分たちと同じところにいた」はずの人がメシアであることの意味は、とても大きいと思います。

 先々週の日曜日、教会では洗礼堅信式がおこなわれました。その日の説教、と言いましても教会には高地主教が来られましたので、YouTubeと説教要旨のみのものですが、その中でもわたしはこのようなことを言いました。それは、洗礼を受けたからといって、不安や恐れとおさらばできるわけではないということです。もう少し正確に言った方がいいかもしれません。洗礼を受け、堅信の恵みに与ったからこそ、不安や恐れは増大しているかもしれないのです。わたしたちの信仰は、今、この世をハッピーに生きるためのものなのでしょうか。金運が上昇したり、家族の健康が守られたり、商売がうまくいったり、希望する学校に入れたり、そのような「自分の思いが適う」、そのためにわたしたちは信仰をもっているのでしょうか。

 たしかにそれもあるかもしれない。でも決してそれだけではないのです。それがメインではないはずです。神さまを受け入れ、イエス様に倣って生きるときに、わたしたちの歩む道には必ず困難が訪れるのです。

 今日の使徒書は、コリントの信徒への手紙二、12章2節から10節でした。この手紙の作者はパウロです。彼は神さまにこう祈り続けました。「わたしのとげを取り除いてください」、そう三度も願ったそうです。そのとげが何であったのかはわかりません。視力の衰えなのか、過去の過ちなのか、想像する以外ありません。

 でも、あのパウロが、キリスト教の土台を作り、強い信念と信仰を持っていたあのパウロが「わたしのとげを取り除いてください」と神さまに三度も祈っている。敬虔深いパウロです。神さまはその願いをすぐに聞いたのでしょうか。

 神さまはパウロに対してこう答えました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。パウロはその神さまからの言葉を思い起こし、コリントの人たちにあてた手紙の中で、このように伝えます。

 「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 弱いときにこそ強い、それはなぜか。弱いときには頼るからです。自分の力では無理、そのようなときには、神さまの力に頼らざるを得ないからです。心から神さまにすべてを委ねたときに、わたしたちは強められるのです。

 先週、先々週と、同じようなメッセージが語られました。「恐れることはない、ただ信じなさい」。そのことを聖書は伝えてきました。そして今週、わたしたちのそばにはどのような方がおられるのかということが語られています。

 彼は主であり、キリストであり、救い主メシアであり、そしてナザレのイエスなのです。ナザレのイエス、これがとっても大事なんですね。彼は天の高い所からわたしたちを引き上げようとはされなかった。神さまのみ心は、彼を地上に遣わし、わたしたちと同じように笑い、泣き、太陽を見上げ、泥にまみれ、汗を流す者とされることでした。

 イエス様はわたしたちと同じように、生涯を送られたのです。だからわたしたちの苦しみも、悲しみも、つらさも、不満も、何もかも理解してくださる。その心を一緒に背負ってくださる。わたしたちの信仰とは、そのように一緒に傷つきながらも歩いてくださるお方を受け入れるということなのです。 わたしたち一人ひとりの心の中は、それぞれ違います。しかしわたしたちと同じところにまで降ってくださり、共に歩まれる方がいるということ、本当にうれしいことです。そしてその喜びを、多くの人たちと分かち合ってまいりましょう。