2019年11月3日 〈聖霊降臨後第21主日〉説教

善を行うことを学べ
 イザヤ1:10-20 ルカ19:1-10

  司祭 ヨハネ 井田 泉
  奈良基督教会にて

 しばらく前、アモス書から説教したときに、旧約の預言者の精神がイエスさまに流れ込んでいる、ということを申しました。今日の預言者イザヤの精神もイエスさまに流れ込んでいます。
 そこで今日は、先ほど朗読されたイザヤの言葉を聞いてみることにします。正確に言えば、イザヤをとおして語られた神の言葉です。

 ところで預言者には不思議な力が与えられています。それは神の声を聞くという力です。同時に虐げられた民衆の声を聞くという力です。普通の人には聞こえない声が聞こえ、普通の人には見えない、あるいは見ようとしない現実が見える。そうすると黙っているわけにはいかなくなる。言わば預言者とは、神によって目と耳が、さらに口が開かれた人なのです。
 イザヤはこの社会の悪しき現実を見ます。それに対する神の思いをはっきり感じます。それで神に語らされて語ります。神によって示され、神によって促されるので、語らざるを得ません。
 後にイザヤの言葉を集めて記録し、編集した人は、「幻」(ビジョン)という言葉を使いました。
 イザヤ書の冒頭には、タイトルのような言葉が記されています。

「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。」イザヤ1:1

 気になってヘブライ語の原典を確かめたところ、「幻」(ビジョン)という単語が最初にあります。「幻、イザヤの」という言葉でイザヤ書は始まるのです。
 「幻」というのは現実にはない蜃気楼のようなもの、というのとはまったく反対に、現にある神の臨在、社会の現実、人の現実を、言わば神の目で見るように示される、ということです。人としての知識と判断を超えて、神から示される。それでイザヤ書を編集した人は、「幻」と記したのです。

 少し前置きが長くなりました。今日の冒頭です。

「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」イザヤ1:10

 ソドムもゴモラも、かつては繁栄を誇った都市の名前ですが、いずれもその悪のゆえにすでに滅びた町です。
 かつてのソドム、ゴモラと同じだ、今のこのユダの国の現実は、とイザヤは言うのです。

「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。」イザヤ1:10

 悪に陥ったユダの国の支配者たち、またその悪の現実に巻き込まれてそれに同調してしまっている多くの人々。彼らに向かってイザヤは「主の言葉を聞け」「わたしたちの神の教えに耳を傾けよ」と呼びかけます。紀元前700年余り前のことです。

 すぐそれに続くのは、当時ユダの国で盛大に行われていた宗教的儀式、つまり礼拝に対するきびしい批判です。

「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」1:11

 なぜ神がそれらの献げ物を喜ばれないかというと、悪い行いを重ねながらそれを悪いとも思わず、そのまま平気で神の恵みを求めようとするからです。ここにはもう人としての良心、神への真実が失われています。大きな力と財産を獲得して強い影響力を持った宗教、特にその指導者たちは、しばしばこのようになります。歴史と世界を見れば、キリスト教も例外ではありません。

 神に莫大な献げ物を携えて来て、神の恵みを得ようとするその手。その手を神がご覧になると、血にまみれている。貧しい人たちから搾り取ってその人たちの命を削り取ってきた手だからです。

 「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」1:15-17

 富める者がますます財産を加え、貧しい人たちがますます苦しい生活に追い込まれていく。このあり方を変えよ、善を行うことを学べ、と主が言われます。

 昔、中曽根首相が言いました。「大型間接税はけっして導入しない」。つまり消費税のことです。しかし消費税は導入され、3パーセント、5パーセント、8パーセント、ついに10パーセントになった。政府は、これは社会福祉のための財源確保だと繰り返し説明してきました。しかしこのような税金は、貧しい人を最も直撃する。年金は下がり、実質賃金は下がっていく。正規雇用が減り、非正規雇用が激増しています。将来に希望が持てない若い人たちが増えています。そして現実には軍事費、アメリカから買う兵器の費用が途方もなく膨れ上がっています。イザヤの言葉は遠い昔のこととは思えません。

 今日のイザヤ書に響いているのは「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」という痛切な呼びかけです。

 イザヤをとおして社会と人の悪を責められた神は、ただ責めて滅ぼそうとされているのではなく、社会の、人々の悔い改めを、方向転換を願われました。厳しさの中にも神の愛が呼びかけているのです。

「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)のようでも、雪のように白くなることができる。」1:18
考え直し、生き直せ。それはできる。

 主イエスはこのイザヤに溢れていた神の思いと情熱を受け継がれました。ルカ福音書の中でイエスはこう言われました。

「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。」11:42

 立派な献げ物をするが、あなたたちは不幸だ。「正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」

 「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」とイザヤをとおして呼びかけられた神の声が、イエスさまをとおして強く響いています。

 今日の福音書には徴税人ザアカイのことが語られていました。彼は自分の立場を利用して、弱い立場の人たちから税を搾り取り、財を蓄えていた人でした。しかしイエスは彼の中に孤独、空虚をご覧になりました。イエスと出会い、イエスの愛を受けたザアカイに大きな変化が起こりました。

「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」ルカ19:8

 ザアカイのうちに良心が呼び覚まされました。神への愛が燃え始めました。善を行うことが始まりました。
 「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」というイザヤの、神の呼びかけは、イエスの愛、イエスとの出会いによってザアカイに現実となったのです。

 わたしたちは巨大な力に対してしばしば無力を感じます。しかし神の呼びかけを心に宿していたい。

「悪を行うことをやめ、善を行うことを学べ」

 わたしたち一人ひとりを愛しておられるイエスは、ご自身の愛をわたしたちに注いで、わたしたちに善を行うことを学ばせてくださいます。イザヤが見、イエスさまが見ておられた神の幻(ビジョン)が、わたしたちを失望から救い、主とともにまっすぐに生きることを可能にしてくださいます。

 祈ります。
 神さま、あなたは今のこの社会と人の現実を見ておられます。主イエスが言われたように、正義の実行と神への愛を大切にするわたしたちにしてください。善を行うことを学ぶわたしたちにしてください。失望せずにあなたが喜ばれることを行わせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン