「わたしの愛にとどまりなさい」
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ヨハネによる福音書15章9~17節
愛という言葉を聞いて、みなさんはどのような思いを持たれるでしょうか。わたしが初めて教会の門をくぐった中学1年のとき、教会というところは悪いことをするような人たちが通うところではなく、みんないつもニコニコ笑い合っている、そのような場所だと思っていました。
多くの場面においては、そうでした。クリスマスが近づいたらああでもない、こうでもないと何回も話し合いを続けます。キャンプはどういう風にやろうとか、修養会をどのようにもとうとか、みんなで楽しく、和気あいあいと語っていました。
今、その教会、わたしが洗礼を受けた福岡の小さな教会は、15年以上も無牧です。小さな単立の教会で、信徒の数は10数名。仲間の教会の応援を受けながら、どうにかこうにか礼拝を守っていると聞きます。洗礼を受けたときにお世話になった先生は、教会を離れました。その先生のあとに来られた牧師先生も、数年で福岡の教会から離れていかれました。そしていわゆる無牧という状態になりました。その当時の状況を様々な方に聞かされた時に、わたしはとても複雑な思いにとらわれました。
愛があふれているはずの教会で、たくさんの人が傷つき、別れている現実がありました。わたしが洗礼を受けた場所、心の拠り所である教会が、今そのような状況に陥っている。これは紛れもない現実です。
聖書は神さまからのラブレターだと言われます。神さまはわたしたちに対し、わたしはあなたを愛していると何度も何度も伝えます。そしてあなたたちも同じようにしなさいと言われています。聖書はそのことを、しつこく何回でも伝えています。
ところが、それが伝わらない。実行されていかない。毎週聖書を読み、説教に耳を傾け、聖歌を歌い、祈っているはずなのにどうして、と思ってしまう。そして自分自身の心の中にも気づかされてしまうんですね。「自分も本当にみんなのことを愛しているのか」と。
小さいころ、土曜日の夕方になると、家族でいつも見ていた番組がありました。「大草原の小さな家」というアメリカの開拓時代の頃の様子を描いたものです。大好きで、大人になってからDVDのコンプリートボックスを揃えました。
その大草原に暮らす家族たちの中心には、教会がありました。日曜日になると仕事を休み、みんな着飾って教会に行く。はたから見ると、とても敬虔な人たちに見えます。でも実際はどうかというと、やはり醜い部分がいたるところに見られるんですね。
彼らはいろんなことで衝突していきます。差別、いじめ、職業、献金の額。様々な理由で相手を蔑み、否定し、自分たちの輪からはぶいていく。でもドラマは、大抵ハッピーエンドで終わっていきます。傷つけた相手に謝罪したり、一緒に食事をしたり、涙を流しながら祈ったり。一方的にどちらかが折れる、変わるのではなく、お互いに歩み寄り、受け入れていく。そして翌週にはまたトラブルが起こる。その繰り返しです。
彼らはその場所にとどまっていきました。それは神さまの愛にとどまることを選択したということです。神さまは自分たちを愛している。その確信があるから、彼らはその場にとどまる選択をした。神さまが自分たちを愛し、受け入れているから、彼らも周りの人たちを受け入れようとした。そういうことなのかもしれません。
今週の聖書日課では、ヨハネの手紙一4章7~21節とヨハネによる福音書15章9~17節が読まれました。どちらにも愛という言葉がたくさん出てきます。ヨハネの手紙には29回、そしてヨハネ福音書には9回、あわせて38回も「愛」という文字が出てきました。なぜそんなにもたくさん出てくるのか。答えは簡単です。わたしたちは、愛からすぐに離れてしまうからです。愛することを忘れ、自分の思いを優先し、相手を自分の思うように変えようとする。それができたら受け入れるし、そうしない人は排除する。イエス様が語られた愛とは、まったくかけ離れたことがおこなわれていくからです。
これはわたしたちにも、大いに関係あることなのだと思います。イエス様は弟子たちが、十字架のときに、自己保身に走ることはわかっていました。イエス様を裏切り、見捨て、そんな男は知らないと否定することも知っていました。そして神さまの愛から離れていくであろうこともお見通しでした。
わたしたちもふと気が付くと、神さまの愛から離れてしまう。その自分の姿に気づいていくことが大事なのです。そしてそのたびに、神さまから与えられる愛の深さを感じる。愛を語る聖書の言葉に耳を傾ける。神さまの愛にとどまることが求められているのです。
今週木曜、5月13日に、教会は昇天日を迎えます。それから10日後の5月23日の聖霊降臨日まで、「み国が来ますように」という祈りのプログラムがあります。日本聖公会では昨年からこのプログラムに参加しています。すでに冊子をお配りしておりますが、管区のHPからも見ることができます。
(http://www.nskk.org/province/blog_pdf/2021_thy_kingdom_come_leaflet.pdf)
その第8日目に、このような一文がありました。
イエスさまに従うこと、主の教会での人生に立ち戻ることは、この偉大な愛の一部となることを意味します。わたしたちは、変化をもたらす神の代理人となり、この世における愛のために、神に遣わされた者となるのです。
この世における愛のために、神さまに遣わされた者となる。すごく重たい一文です。わたしたちはなかなか愛する者となれない。しかし神さまの愛を受け入れたわたしたちは、この世を愛さなければいけないのです。この世に神さまの愛を伝えるために、わたしたちはこうして集められ、そして遣わされていくのです。
その具体的な方法が、このプログラムでは紹介されています。それはこの祈りの期間中に、祈りに覚えたい人たちの名前を書くということです。冊子には5人分の名前を書くスペースがあります。でもそれより多くても、少なくても構いません。わたしたちがいただいている神さまの愛を知って欲しい、その愛に立ち返ってほしい、そういう人たちを覚えるのです。
誰かのことを思いうかべ、祈り続けること。神さまの愛の交わりに、みんなが集ってほしいと願うこと。それを愛と呼ぶのだと思います。神さまから頂いた大きな愛を、どうぞたくさんの方々と分かち合ってください。