2020年1月26日〈顕現後第3主日〉説教

最初の弟子アンデレ
 マタイ4:18-22

  司祭 ヨハネ 井田 泉
  奈良基督教会にて  

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」マタイ4:18

 シモン・ペテロの兄弟アンデレ。彼はペテロの陰に隠れがちで目立たない存在です。今日はそのアンデレに注意を向けてみます。
 アンデレはガリラヤ湖北岸の町、ベトサイダ出身の人で、兄弟シモン(後のペテロ)とともにガリラヤ湖の漁師でした。ある日、彼が兄弟シモンとともに湖で網を打っていると、イエスが近づいてきて、二人をご覧になって言われました。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」4:19

 これまで二人は魚をとる漁師でした。しかしこれからは人間をとる漁師。これはどういうことかというと、神さまのために人を捕まえる働きをする。イエスさまかそのように定め、任命されたのです。「人間をとる漁師」。ここにはイエスさまのある種のユーモアがあります。これからふたりは神さまのために人を捕まえる。人を捕まえてどうするのか。食べるのではありません。その人たちを救うのです。その人たちを生かすのです。
 迷いと悩みのうちにある多くの人々をイエスは集めようとされています。そのイエスの手となり足となって、人々の幸せのために、人々を呼び集めて、神さまとともに歩み、良い目的のために生きる人となるように働く。そのためにアンデレは、シモンとともにイエスに呼ばれたのでした。

「二人はすぐに網を捨てて従った。」4:20

 ところで今日のマタイ福音書にはそのように書かれているのですが、ヨハネ福音書を見ると、別の話が書かれています。
 ヨハネ福音書によれば、アンデレは元々イエスに洗礼を授けたヨハネの弟子であった、というのです。洗礼者ヨハネ。彼は切迫している神の裁きを伝えて、神に向かってまっすぐに生きることを強く促した人です。そのようなヨハネの弟子であったということは、アンデレがよほど真剣に生きようとしていた人であったことを示しています。 
 ある日、アンデレがもう一人の弟子と一緒に洗礼者ヨハネについて歩いていると、ヨハネがイエスを見て「見よ、神の小羊だ」と言いました(ヨハネ1:36)。自分が信頼してやまない洗礼者ヨハネが、自分よりはるかにまさる尊い存在としてイエスを指さした。それに促されるようにしてアンデレはもう一人の弟子と共にイエスに従っていきました。イエスは振り帰って、自分に従ってくる二人を見て、「何を求めているのか」と尋ねられました。アンデレが真剣に何かを求めているのをイエスは見て取られたのです。

 わたしたちは主イエスを信じる、主イエスに従う、という言葉をしばしば耳にし、あるいは口にします。けれどもそのとき、イエスの姿を見ているでしょうか。イエスは振り返ってわたしたちをご覧になります。わたしたちが何かを求めているなら、求めているわたしたちを見てとられます。「何を求めているのか」。これはわたしたちに対するイエスさまの問いかけでもあります。

 アンデレたちはイエスにそう尋ねられて、すぐに本質的なことを口にすることはできませんでした。

「彼らが、『ラビ――“先生”という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。」ヨハネ1:38-39

 イエスとともに一夜を過ごしたアンデレは確信しました。このイエスこそはメシア、世の救い主である、と。それでアンデレは、兄弟のシモン・ペテロを見つけて言いました。

「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った。」ヨハネ1:41

 そう口で言っただけではなく、アンデレはシモンをイエスのところに連れて行きました。こうしてシモン・ペテロはイエスの弟子となったのです。アンデレは自らイエスをはっきりと認識し、そしてそれにとどまらずに兄弟シモンをイエスに出会わせた。シモンとイエスの仲介役となったのでした。
 ヨハネ福音書がアンデレについて語っている第1の話はこれです。

 ヨハネ福音書が伝える第2の話が第6章にあります。あるとき、イエスは山に登られました。たくさんの人々がイエスを慕って集まりました。イエスは人々の疲れと空腹を心配されて、「この人たちにパンを食べさせるにはどうしたらよいか」と尋ねられました。フィリポは、こんなに大勢だからとても無理だと言います。そのときアンデレがイエスに言いました。

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ヨハネ6:9

 どうにもならないと思いつつも、わずかな可能性をアンデレはイエスに伝えたのです。自分の持っているパンと魚を差し出した少年の優しさをアンデレは感じて、それをイエスに伝えたのではないでしょうか。
 その後、驚くべきことが起こりました。イエスはそれを大切に受け取って祝福の祈りをされた。そしてそれを分けられた。するとどうでしょう。5000人、いや、1万人を超える人々が食べて満ち足りたのです。アンデレの思いと言葉が、多くの人々の祝福につながったのです。わたしたちの間にも、アンデレのような人が必要ではないでしょうか。人々を大切に思われるイエスの思いを汲み取って、優しい少年の心を汲み取って、些細な、役に立たないかと思うことでも、言ってみる。してみる。それが大きな人々の祝福につながるかもしれないのです。

 アンデレに関するヨハネ福音書の第3の物語。イエスの受難の時が迫った12章です。イエスが生涯の最後を覚悟してエルサレムに入られたとき、何人かのギリシア人が尋ねてきて、まずフィリポに「イエスにお目にかかりたい」と頼みました。フィリポはそれをアンデレに話し、アンデレとフィリポはイエスのところに行ってそれを伝えました。ここでもアンデレは、仲介役をしているのです。ギリシア人とイエスの間の仲介役です。イエスとギリシア人がどのように出会ってどんな話をしたかは書かれていません。しかしイエスがギリシア人が来たことを聞かれたとき、自分の死がいよいよ迫ったことを自覚してこう言われました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。……わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。……」ヨハネ12:23-26
「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」

 アンデレもフィリポも、尋ねてきたギリシア人たちも、イエスに従い仕えるなら、イエスのおられるところに共にいるようになるのです。

 人の前に立って目だった働きをしたわけではないアンデレ。しかしアンデレはこのように人々の求めを、またあの少年の好意を温かい心で受けとめて、イエスと人々の仲介役を果たしました。

 このアンデレのような人がわたしたちの間にいますか。この教会に、アンデレのように人をイエスさまにつなぐ仲介の役をそっと果たす温かい人がいますか。いないなら教会は滅びます。反対にそのような人がいるなら、いや、だれかほかの人のことではなく、わたしたちが、皆が、ささやかでもアンデレの役を果たすなら、教会は生きて発展するでしょう。
 人はイエスさまを求めているのです。イエスさまを求めている人たちがここに次々にやってきています。それなのにその人をイエスさまにつながないでいていいでしょうか。 
 わたしたちはアンデレとともに、人を大切に思い、人をイエスさまにつなぎ、イエスさまを中心とした信仰の共同体をつくっていくのです。

 主イエスさま、あなたはわたしたちを招かれました。そしてわたしたちをとおして人々を招いておられます。神さまが喜ばれることの実現のために、人々の幸せのために、わたしたちを祝福して用いてください。アーメン