2020年4月12日 <復活日> 説教

「空(から)の墓」

ヨハネによる福音書20章1~18節

 わたしたちは今、新型コロナウイルスという見えない恐怖におびえています。何をどう考えていいのかわからない。そのような状態です。

 今日の福音書を見てみますと、このような言葉からスタートします。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」。マグダラのマリアはイエス様の十字架の下までついていき、涙を流した女性でした。最後までイエス様を見捨てることなく従った、数少ない一人でした。その彼女が朝早く、まだ暗いうちにイエス様が葬られた墓へと向かいました。

 しかし彼女がイエス様のお墓に行ったのは、イエス様の遺体に香料を塗るためでした。つまりマグダラのマリアでさえも、イエス様が復活するという言葉を信じることはできなかったのです。ところが彼女が墓に行ったとき、目の前にあったのは、空っぽのお墓です。イエス様の遺体が置かれていたところには何もない。ただイエス様の体を巻いていた亜麻布が置かれているだけです。

 復活の日の朝の出来事、それはとても理解しがたいものでした。聖書には、様々な復活のイエス様との出会いが語られていきます。締め切った部屋で弟子たちの真ん中にイエス様が現れた話、その話を信じなかったトマスの前にもイエス様があらわれた話、エマオの途上での話、マグダラのマリアに現れた話もあります。

 わたしたちは復活のイエス様との出会いというと、そういうものを想像します。というよりも、そういうものにあこがれるのではないでしょうか。自分の目の前にイエス様が現れ、釘のあとを見せてくれたら、どんなにいいだろうかと。

 しかし最初の復活の出来事は、「空っぽのお墓」なんです。いるはずのイエス様がいなくなってしまった。そのときにイエス様の復活を信じることができるかということです。

この数か月、わたしは何度も神さまを探し回り、そして何度も、「よかった、神さまいてくれた」とほっとしました。何度も何度も、その繰り返しでした。わたしは牧師です。でも人間です。弱い者です。信仰がグラつくこともあります。そのたびに、神さまに呆れられ、苦笑いされながら、ギュッと手をつかまれている一人です。

わたしたち一人ひとりもまた、心に不安や恐れを抱きながら、空っぽのお墓を見つめているのです。本当にイエス様はいてくれるのだろうかと戸惑いながら、心静かに神さまの声に集中しましょう。そこに、イエス様は来てくださいます。

 劇的な形で来られるわけではありません。わたしたちの心の中で、イエス様はずっとノックしてくださっています。その小さな音に、今、耳を傾けたい。いつもは聞こえなかった音が、声が、そして気配が、必ずわかるはずです。

 今年の復活日、ちょっと残念だったね、なんて思う必要はまったくないのです。神さまはわたしたちにこのような機会を与えてくださいました。わたしたち一人一人がイエス様に出会うために、今日という日があるのです。

 だから心から言いましょう。イースターおめでとうございます。