2022年9月25日<聖霊降臨後第16主日(特定21)>説教

「地獄へ行かないために…??」

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 ルカによる福音書16章19~31節

 奈良基督教会では「恵みの橋渡し」という美しい名前の聖書研究会が月に一回行われ、少し前から「絵画で読む聖書」と題して、私が担当させていただいています。私は昔キリスト教美術史を専門的に勉強していたこともあり、テーマごとに様々な時代や作者による絵画を見ながら、聖書を読み、うんちくを傾け、参加者の思いを分かち合うということをしています。前回は、「最後の審判」を取り上げました。最後の審判と聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、ローマのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロによる巨大な祭壇画ですが、そのほかにもたくさんの名画があり、それらを見比べるのがとても楽しい時間となりました。それらの絵画に共通して私たちの目を引き付けるのが、審判者イエスを挟んで反対側にある天国と対照的に描かれた地獄の場面です。鬼に体を引き裂かれていたり、上半身が鋭い歯を剥き出す大きな口の中に入れられていたり、蛇にぐるぐる巻きにされていたり、グツグツ焚かれた大鍋に入れられていたり、それはもう見るも無残な地獄絵です。幼い子どもがこれらの絵を見せられて、「もう一回悪いことしたらこっち側だよ!」なんて言われたら、きっと泣きながら、「もう絶対しない。ごめんなさい」と懇願することでしょう。幼い子どもでなくとも、教会の美術は、かつて聖書を読むことができない庶民が絵や彫刻を見てその内容が分かるようにと発展しましたから、昔は大人にとってもそれらの絵は聖書のメッセージとして大きな意味を持ったにちがいありません。今でこそ、私たち大人の多くはそれらを見て、「すごい想像力だな」というくらいにしか思いませんが、それでも、たまに大音量のスピーカーで「救い主イエス・キリストを信じない者は地獄へ落ちます」という言葉を流す車に遭遇すると、ああ、未だに聖書のメッセージをこんな風に伝える人たちもいるのだなとちょっと残念に感じたりもします。

 実際、聖公会ではあまり、というかほとんど地獄の存在について語られません。御国、神の国という言葉はよく聞きますが、それも死んだ後の世界としてよりは、この世における神の国、イエスが始め、神さまが完成させようとしている御国、神の愛と平和に満ちた世界の実現に私たちがどう参与すべきかということが語られます。昔、ある他教派の教会の日曜学校に参加させてもらったことがあるのですが、そこで牧師さんが子どもたちに、「みんなのお友だちがイエスさまを信じなければ、地獄で火の海に投げられるんだよ。怖いよね。そうなってほしくなければお友達を教会へ連れてこようね」と語っておられたのを聞いてびっくりしたことがあります。礼拝後、勇気を出してその牧師に「ちょっと怖いと思ったのですが、いつもそんな風に教えられるのですか?」と聞くと、「え、聖公会では、地獄を教えないんですか? なめられませんか?」と反対にびっくりされてしまいました。みなさんはどうお考えになるでしょうか。

 今日の福音書は、数少ない地獄(ここでは陰府と記されていますが)の描写がある箇所です。毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちは死後、炎の中でもだえ苦しみ、そこでどんなに助けを求めようとも救われることはない。その一方で、その金持ちの家の前で日々の糧もままならず横たわっていた貧しいラザロという人は、死後、天国でイスラエル民族の父アブラハムとともに宴会をしていたというたとえ話がイエスによって語られています。この部分だけ読みますと、自分は大変恵まれているにもかかわらず、貧しい人や社会的弱者に対して見て見ぬふりをし、無関心を装って自分には関係ないという生き方をする人は死後苦しみ、この世で苦しい思いをした人たちは天で報われるという非常にシンプルな道徳的教えとして理解することができます。子どもたちに地獄絵を見せて生き方を考えさせるのと同じ手法です。しかし、後半に、もっと大切な、核心的メッセージが語られるのです。この金持ちは、いったん陰府に来てしまうと二度と救われることはないと知ったときに、それではせめて今生きている自分の兄弟たちが自分と同じ目に遭わないように、死後どうなるか伝えてやってくださいとアブラハムに懇願します。すると、彼は言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。モーセとは律法のこと、預言者とはイエス以前の預言者たちに預けられた神の言葉です。それはすなわち聖書を意味します。イエスの時代の聖書ですから、私たちから言うと、旧約聖書のことですね。聖書の言葉に耳を傾けないのであれば、いくら死んだ人が幽霊となって出てきて、地獄の恐ろしさを伝えたところで聞きやしないだろうと。これはすごい名言だと思うんですね。これこそが、キリスト教の教えです。将来怖い思いをし、苦しい目に遭いたくなければ、こういう生き方をしてはいけません、あるいは、将来救われるために、最高のご褒美をもらうために、こういう生き方をしなさいということではないのです。モーセと預言者、すなわち聖書が教えているのは、究極的に裁きではなく、神の愛です。神さまは、こんなにも私たち一人ひとりを愛してくださっている。私たち一人ひとりが神さまの目にどれほど値高く尊いものであるかが示されています。だから私たちも神を愛し、人を自分のように愛しなさいと教えられます。マタイによる福音書7章12節には、もっとわかりやすく書かれています。黄金律と呼ばれるイエスの言葉ですが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」とあります。

 地獄に落とされないためにこれはやめておこう、救われるためにこうしようというような生き方はおそらく長続きはしません。それに、そういう生き方は想像するだけでものすごくしんどいものです。なぜでしょう? そこに喜びがないからだと思います。神さまの愛を感じたならば、私たちはほぼ自動的に(聖霊の働きによって)、自分のためにではなく、神さまのために、人のために生きたいと背中を押されるようになります。自分に与えられた恵みや賜物を他者と分かち合う、喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣くという生き方に真の喜びを感じることができるようになるのです。

 その神の愛を感じなくさせてしまうもの、見えなくさせてしまうものが、この世の富です。お金です。そのことをルカは何度も何度も語ります。お金を持つことは決して悪いことではありません。でも、お金に執着してしまうとどうしても神さまに背を向けてしまうことになります。先週の福音書「不正な管理人のたとえ」の最後にあった通り、私たちは「神と富とに仕えることはできない」のです。私たちの目にお金が見えなくなるくらいまで、神の愛を感じることができるように、聖書に耳を傾け続けていきましょう。そして、私たち一人ひとりの心の門の前に倒れているラザロに気づき、手を差し伸べる勇気と力と優しさが与えられますよう、祈り続けていきたいと思います。