2023年11月26日<降臨節前主日(特定29)>説教

「王さま、何者!?」

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 マタイによる福音書25章31~46節

 今日は降臨節前主日、教会の暦の上で一年最後の日曜日となります。このA年の聖書日課を使うのは今日が最後です。来週からクリスマスを迎える準備期間である降臨節、アドベントに入りますが、このクリスマスの準備期間から新しい年、B年が始まるわけです。この一年最後の日曜日は、伝統的に「王なるキリストの日」と呼ばれてきました。今日の特祷にある通り、イエス様が王の王であることを確認する日なのです。皆さんは、王様と聞いたらどんな姿をイメージするでしょうか? おそらく、英国国王のような威厳ある姿を思い浮かべるのでないでしょうか。庶民は王さまに滅多なことではお目にかかれません。たとえ謁見の場に特別に招かれたとしても、まず正装が求められ、近くを通られれば深々とお辞儀をしなければならない、そんなイメージがあります。まさに自分たちとは住む場所がちがう雲の上の人々なんですね。イエス様が王の王であるということは、そのはるか上を行く、まったく私たちの手には届かない、そう、神さまであるということを教えてくれているのでしょうか?

 聖公会では、毎年聖書日課が3年サイクルで変わり、ちがう福音書が読まれます。A年ではマタイ、B年ではマルコ、C年ではルカの福音書が中心に読まれていくわけですが、それぞれの福音書でこの一年最後の「王なるキリストの日」にどんなイエス様が描かれているのか見てみたいと思います。今年のA年は後で見るとして、B年のマルコによる福音書では、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入る場面です。馬や馬車でなく、ロールスロイスでもなく、小さなロバに乗ったイエス様に対し、人々は歓声をあげて出迎えます。この方こそが自分たちイスラエルの民をローマの圧政から救ってくれる王であると信じて大歓迎したのですが、その一週間後、彼が自分たちの望む政治を動かすことのできる王ではなかったことを知ると、一度に掌を返し、イエス様を十字架につけることに賛同し殺してしまいます。

 それでは、C年のルカによる福音書では、どんな箇所が選ばれているのでしょう。B年よりもさらに辛い場面です。イエス様が二人の強盗と共に十字架につけられ、一人から「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と罵られ、もう一人から「あなたの王国にお出でになるとき、私を思い出してください」という言葉をかけられるシーンなんですね。小さなロバに乗り、ばんざーいと叫ばれるイエス様、そして十字架の上で罵られるイエス様。そう、B年もC年も、私たちの知る王には似ても似つかないイエス様の姿が描かれています。

 では、今年のA年に戻りましょう。さきほどお読みした箇所です。ここではイエス様を表わす「人の子」が世の終わりに王として出て、羊と山羊を分けるようにすべての民族を裁く場面が描かれています。その姿はまるでエンマ大王のようですね。はい、あなたは右、あなたは左、と一人ずつ分けていくのだそうです。右に行った人たちには永遠の命が与えられ、左へ分けられた人たちは永遠の懲らしめを受けるとあります。怖いですよね。みんな赦してくださる愛の神さまのはずなのに、ほんとかなぁと思いつつも読み進めると、その右と左に分けられる基準が出てきます。王様は右側に選ばれた正しい人たちに対して、その理由を説明するのです。「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と。すると、彼らは「そんなこと私たちしたでしょうか? まったく身に覚えがありませんが!」と慌てて言うのです。黙ってればいいのに、さすが正しい人たちです。

 よく考えれば、聞かずにおれなかったのかもしれません。だって考えられないからです。王様が飢えていたり、喉が渇いていたり、泊まる宿がなかったり、裸だったり、病気だったり、そして牢屋に入っていたりすることなどあるはずがないのです。そういったことに無縁なのが王様のはずですよね。しかし、その王様は答えました。「実は、あなたがたが、これらの最も小さな者の一人にしたのは、すなわち私にしたのだよ。」これはどういうことでしょうか。世の王さまだって、自分の国の困っている人を助けた人には褒美を与えるかもしれません。でも、ここはそういうことではないのです。昔助けたかもしれない飢えた人、喉が渇いた人、泊まる場所のない人、服のない人、病気の人、牢屋に入れられた人たちが王様、すなわちイエス様ご自身だというのです。

 この説教を書きながら、子どもの頃の出来事を思い出しました。私たち家族は、父が奉仕していた神戸の教会の小さな牧師館に住んでおり、当時はまだ教会にお金をくださいと言って見知らぬ人が訪ねて来ることがよくありました。両親はお金をあげることもありましたが、お酒の匂いのする人には絶対に現金は渡さず、母がお蕎麦を作って玄関先に座らせて食べさせることもよくありました。その中の一人、何度か母がお蕎麦をごちそうした人がある日、ごみ袋のような大きな袋2袋いっぱいに、お店で買いあさったカップ麺やインスタントラーメン、お菓子なんかをいっぱい詰めて持って来たのです。母に一言お礼を言って、その袋を置いて帰り、もう二度と戻って来られることはありませんでした。その後、母が言ったのです。「イエス様だったのかなぁ。」え~なんであんなに汚くて臭くてお金のない人が?と思ったのを覚えています。そして、上から目線で、貧しい人にやさしくしてあげたらイエス様は喜ばれるんだ、そしてご褒美をくれるのかな、単純にそのように思い込んだ気がします。

 でもイエス様がここでわたしたちに伝えたいのは、おそらくそういうことではないのです。イエス様が私たちに善い行いをさせるために、困っている人に化けているのではなく、イエス様ご自身が、私たちの痛み、苦しみ、悲しみをすべて知る最も小さい者であったということなのです。貧しい家畜小屋で生まれ、生まれてすぐに難民としてエジプトへ逃げなければならなかった。その後、貧しいナザレの村で大工の子として育ち、行く先々で神さまの話をして日々の糧をいただき、病気の人を癒し、差別された人とともに食事をし、友なき人の友となった。そして、最後は丸裸にされて十字架につけられて死んでしまった。この、雲の上どころか、ここにいる私たちよりもはるかに低く小さい者として生きられたこの方こそが王の王であり、救い主であり、神であったということなのです。

 どうしてこのような方を王であると聖書は言うのでしょう? 王というのは、私たちがイメージするようなただただ身分の違う偉い方ではありません。この世界を支配し、そこに生きるすべてのものが従わなければならない存在です。そういう意味では、現代に生きる私たちには非常にイメージしづらい気もします。それでも、ちょっとがんばって想像できますでしょうか? イエス様が王である世界がどのようであるかを。小さなロバにのり、十字架の上で罵られ、飢え、渇き、泊まる場所もなく、着る服もなく、健康が奪われ、牢に入れられたその方が王である世界を。そのような王に私たち一人ひとりが従うとしたら、仕えるとしたら、この世界はどのような場所になるのでしょうか。どんなに愛のあふれた、本当の平和が満ちた世界になることでしょう。それが御国です。神の国なのです。

 来週から教会は新年を迎え、貧しい馬小屋の飼い葉おけに寝かされた小さな小さな赤ちゃんイエス様をお迎えする準備期間が始まります。準備というと、イエス様のお誕生を祝うクリスマスをゴールとして捉えてしまいがちです。でも、メリークリスマスが終わりではないのです。私たちがその「最も小さな者」であるイエス様に従い、彼によって始められた神の国を少しでも完成に近づけるお手伝いができますように願い、心を一新して新しい年を迎えたいと思います。