「汚れをおそれず」
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マルコによる福音書7章1~8、14~15、21~23節
先日、この数年の出来事を思い起こしていました。2020年に入って、全国の学校が休校になり、緊急事態宣言が出され、また、まん延防止等重点措置という聞き慣れない宣言も出されていきました。その中で教会でも、様々な感染症対策をしていきました。
さてわたしたち教会はこの4年間、何を恐れ、何を大切にし、そして何から身を守ろうとしてきたのでしょうか。命を守るために何を避け、何を排除していったのでしょうか。今日の福音書を読む中で、そのことを深く考えさせられます。
今日の福音書にはイエス様と、エルサレムから来たファリサイ派や律法学者との問答が載せられています。彼らがイエス様に言ったのはこのようなことです。「あなたの弟子の中には、手を洗わないで食事をしている人がいるじゃないか」。
「ご飯のまえには、ちゃんと手を洗いましょう」、わたしたちは子どもの時からそう教えられ、習慣としてきました。だからそれをしない弟子たちに対して、「不潔でしょ」、「育ちが悪いなあ」ということを言いたいのでしょうか。そうではありません。
今日の旧約聖書、申命記4章1節と2節にはこのように書かれています。「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。」ここで言う「主の戒め」とは、十戒や律法と呼ばれるものです。
イスラエルの人たちは神さまから与えられた戒めをしっかり守ることで、自分を清い状態に保とうとしていたのです。だから今日の「念入りに手を洗う」というのは決して消毒や衛生面を考えてのことではありません。「汚れた」ものから自分を守るすべなのです。旧約聖書のレビ記には、たくさんの「汚れ」に対する規定が書かれています。このようなことをしたらあなたは汚れる、このようなものに触れたらあなたは汚れる。そういったことがたくさん書かれており、さらにその汚れは何日間続くのか、さらにどのようなことをすればその汚れた状態から清い状態に戻れるのか、その羅列です。
イエス様に問答をしかけてきたファリサイ派や律法学者たちは、その戒めを守るのに一生懸命でした。食事の前に念入りに手を洗うのは、知らないうちに汚れた物に触れていて、それを食べ物と一緒に口にしてはいけないからでした。市場でも、もしかしたら汚れた人とすれ違い、そのときに触れていたとしたら大変です。だから市場から帰ったら、必ず身を清めていました。杯や鉢、銅の器や寝台を洗うことも一緒でした。汚れから身を守ることを、第一に考えていたのです。
神さまの掟は、そもそも何を目指していたのでしょうか。旧約の時代、人々はそのように神さまの前に清い者であり続けようとしました。しかし、それはできませんでした。旧約聖書にはたくさんの人物が出てきます。でも誰一人として、神さまの前にいつも正しかったという人はいなかったのです。神さまはその状況を見て、自分の力では神さまの前に立つことのできない人間に、憐れみの目を向けられました。神さまは人が、そのまま滅んでいくのを良しとはされなかったのです。それは神さまが、わたしたち人間を愛しておられるからです。そこで神さまがお選びになった救いの方法は、愛する独り子であるイエス様をわたしたちの間に遣わし、わたしたちの罪を背負わせるということでした。汚れから清い状態に戻るには、神さまにおささげするいけにえが必要でした。イエス様は自らをそのいけにえとして神さまの前に差し出し、その血によって罪を贖われたのです。
イエス様の弟子たちは、手を洗わずに食事をしていました。罪からの解放とは、汚れからの解放も意味します。そしてさらにイエス様は、こう言われるのです。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と。今日の福音書は9節から13節が飛ばされていますが、さらにその9節にはこのようにも書かれています。更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
ファリサイ派や律法学者の人たちは、どうしたら自分の身を清く保てるか、そこにばかり集中していました。そのため、少しでも汚れを持ち込みそうな人は排除し、遠くに追いやり、まったく関わろうとしなかったのです。その行為をイエス様は、「人間の言い伝え」だと言います。それは自分たちが勝手に解釈したことであって、神さまの掟とは違うのだと。では神さまの掟とはどのようなものでしょうか。それはイエス様がなさったことを思い出せば、おのずとわかってくることなのです。イエス様は罪人や徴税人、娼婦や異邦人といった、人々が汚れているとか、関わらない方がいいと思っていたような人たちと、一緒に食事をしたり、関わったりしてこられました。誰かを排除するのではなく、受け入れる。それが神さまの掟、愛だったわけです。ではわたしたちはこの箇所から、何を学べばよいのでしょうか。
コロナの期間、教会は門を閉め、感染対策をし、一定の基準の中で人を受け入れてきました。コロナという未知のウイルスです。その判断は間違っていなかったでしょう。しかし同時に、コロナとは関係ないところで人を排除していたらどうでしょうか。マスクを強要し、消毒をするように勧め、熱を測り、咳や熱の症状があれば帰ってもらう。感染症の対策としてはいいと思います。しかし教会が来る人に何かを強要したり、このようでなければならないと言ったり、それが無理なら一緒に礼拝するのを拒んだり。
再来週、教会では宣教協議会からの呼びかけ第三弾として、「変化を恐れない」というテーマについて考える時間を取りたいと思います。礼拝について、祈祷書について、そして様々な伝統についても考えることができればと思います。わたしたちは、人間の言い伝えを固く守り、神さまの掟を捨ててしまってはいないだろうか。わたしたちは教会での自分の居心地を最優先にしてしまい、敷居を高くしてしまってはいないだろうか。
変化を恐れない、それは自分たちの言い伝えを再解釈し、神さまからの恵みをもう一度見つめなおそうということなのかもしれません。わたしたちは汚れを恐れて、立ち止まる必要はないのです。
教会の働きは、まだまだこれからも大いに求められています。神さまの愛を、一人でも多くの人と分かち合う。そのために、わたしたちは今日も生かされています。そのことを覚え、神さまの思いのためにわたしたちは何ができるのか、祈り求めながら歩んでまいりましょう。