2023年7月23日<聖霊降臨後第8主日(特定11)>説教

「ありのままで」

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 マタイによる福音書13章24~30、36~43節

 先週に引き続いて、イエスのたとえ話が語られています。今週は、「毒麦のたとえ」、私のお気に入りです。先週の「種まく人のたとえ」と同様、福音書には最初に群衆に対して語られたイエスのたとえ話が記され、その後に弟子たちだけに対して語られたとされる、そのたとえの「説明」がつけられています。この解説は、おそらくイエスが当時語ったものではないだろうというのが、今では聖書学者たちの通説になっています。では、聖書には嘘が書かれているのか?神の言葉ではなく、人間が好きに書いたものなのか?という疑問が出てくるわけですが、私はそうではないと思っています。後にマタイの教会がキリスト教に対するひどい迫害に遭った時に自分たちはどうこの苦しみを耐え忍んだらよいのかという問いを神に祈り求め、与えられたのがこのイエスのたとえ話の説明であったのでないかと想像します。ですから、この説明は間違っているのでもなければ、誰かが好き勝手に付け加えたというのでもない。イエスの言葉が書き記されたその当時の人々に与えられた神の言葉なのです。私たちは、イエスのたとえそのものに改めて耳を傾け、神さまは今ここに生きる私たちに何を語ろうとしておられるのかということに心を向ける必要があります。皆さんも既に分かっておられると思いますが、同じ聖句を読んでも毎回心に届けられるメッセージが違う、毎回新しく目が開かれた思いがする。それが聖書です。同じ箇所が取り上げられた3年前、私は別の教会で説教をしましたが、その時の原稿を読んでみると、また今回与えられたものとは違うことに気づきました。聖書の不思議です。聖書は生きており、それは天におられる神さまが今生きる私たちとともに生きておられるということなのです。それではもう一度、このたとえ話に耳を傾けてみましょう。

 イエス様は言われます。「天の国は、次のようなものです。ある人が愛情たっぷりに良い種を自分の畑に蒔きました。『大きくなあれ、たくさん実を付けて、私や多くの人たちを喜ばせておくれ。』ところが、夜の間に悪い奴がやってきてそこにこっそりと毒麦の種を蒔いて行きました。芽が出て麦の穂が実ったとき、使用人たちは毒麦が良い麦に混ざっているのに気づきます。すぐに主人のところに行って、『大変です、毒麦が混ざっています。今のうちに抜き集めておきましょう』と言いました。すると、主人は言いました。『いや、毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない。刈り入れまでそのままに、両方が育つままにしておきなさい。刈り入れの時がきたら、毒麦は焼くために束にして、良い麦の方を私の家に持って帰ろう。』

 どうでしょうか?ちょっと分かりやすく意訳してみましたが、私が思うに、ここから裁きの神様はあまりイメージできません。毒麦に対する怒りや、それらをどのように処分しようかという思惑はそこまで感じられず、むしろ喜んで良い麦を集めて倉に入れる寛大な神さまを思い浮かべるのでないでしょうか。もしかしたら、あなたもだれかの顔を思い出すかもしれません。私はこれを読んですぐ、1年前に天へ帰った父の笑顔が目に浮かびました。父は自分の妻や娘たちの悪い部分もまるごと受け入れて、その良くない部分さえも、その人を形作っている大切な要素として受け止めているようでした。たとえば、私について言うと、とても熱しやすく冷めやすい。いろんなことに飛びついて果敢に始めるのだけれどなかなかそれを継続することができないという自分でもほとほと嫌になる短所があります。15歳で家を飛び出してアメリカへ行き、行ったはいいが、極度のホームシックでたった半年後のクリスマス休暇に家に帰りたいと国際電話で泣きついたこと。なんとか大学院まで進んだけれど、そこで一人で結婚を決めてしまい、将来やりたいことが分からなくなったこと。結婚生活も5年で「もう無理」となり、泣きながら帰国し、当時信徒の離婚について厳しかった神戸教区の主教であった父の顔に泥を塗ったこと。もう数えきれないほどの失敗と回り道でどれほど父に心配をさせ、迷惑をかけたことでしょう。そんな私を見て、父はよく「そういう失敗があるからお前は人として豊かになっているんじゃないか。お前の悪いところは良いところにつながっている」と言ってくれていたのを思い出します。母と妹のことはここでは言うのを避けますが、特に私が妹の言動を悪く告げ口するたびに、父は「それが他の人にはないあいつのいいところでもある。それにこんな良い面もある。ゆるしてあげなさい」とにこやかに言うのでした。何でしょう。父は私たちを全面的に信頼してくれていたのです。悪いところもそれを咎めたり、けなしたりするのでなく、それらを含めた私たちを心から愛おしく思ってくれていました。

 そうか、神さまもそうなのかもしれない、と思うのです。ご自分の似姿に人間を造り、ご自分の造られた世界を彼らに任せて愛と平和に満ちた世界を継続させたかった。けれども最初の人間たちは神さまに背き、禁断の実を食べ、楽園を出ることになってしまった。それでも神さまは彼らを完全に見捨てることはなさらず、裸であった彼らに皮の衣を着せてやるのでした。完全に神さまの許から自ら離れてしまった私たちをいつも見守り、もう一度会い、抱きしめたいと首を長くして待っておられるのです。ぼろぼろになった放蕩息子の帰りを玄関でずっと待ち続け、視界に入った瞬間に走り寄って抱きしめ、接吻してくれる父親のように。そうして、神さまは私たち一人ひとりに対するご自身の愛を知らせるために、イエス様を遣わしてくださったのです。

 神さまは、私たちの中にある毒麦をも認めてくださっています。毒麦しかない人間はこの世に存在しません。最初は良い種しか蒔かれていなくても、みんなこの世に生きている限り毒麦は生えてきます。でも自分の中にあるそれらの毒麦の存在を認め、自分は完璧でないどころか、弱く情けない畑であるということを知ったとき、私たちは種を蒔いてくださった大いなる方に出会い、安心して生きてゆくことができるのです。

 先ほど、神さまを自分の父にたとえるという大それたことをしてしまいましたが、その父も晩年、召される少し前からうつ病にかかり、もう神さまとか教会とかの話はやめてくれと言い、祈ることも拒みました。お父さん、最後に信仰を捨てるなんてやめて!と私は心の中で叫びましたが、天に召された直後の父の顔を見たとき、心配はまったく無用であったことを悟りました。神さまは、その人の刈り入れの時が来たら、すべての毒麦を抜いて束ねて焼き、もともとの神さまの似姿としての良い麦を集めて天の国へ持ち帰ってくださるのです。あなたはありのままでいい。毒麦はあっても、良い麦をどんどん伸ばす努力をすればよいのです。そんなあなたの畑を神さまは、愛おしく、愛おしく思っておられます。