2022年4月3日<大斎節第5主日>説教

「相続財産」

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 ルカによる福音書20章9~19節

 先ほど読まれた福音書ですが、ぶどう園と農夫のたとえと呼ばれるものです。ぶどう園を作った主人がそれを農夫たちに貸して、長い旅に出たそうです。いわゆる地主と小作人の関係です。現代社会においても、この関係はそれほど不思議なものではありません。ぶどう園や農地ではなくても、たとえばテナントビルを持っているオーナーから場所を借りて、そこで商売をするということは普通にあります。

 しかし収穫の時期になって、ぶどう園の主人が収穫を受け取るためにしもべを農夫たちのところに寄こしたところ、事件は起こりました。農夫たちが収穫を渡すことを拒んだんですね。それどころか、袋叩きにして主人の元に返してしまったそうです。もしも主人が越後屋のような悪徳商売人で、農夫たちの手元に何も残らないような形で収穫を寄こすように求めていたのであれば、農夫たちの気持ちもわかります。それは怒っても仕方がないだろうと。しかしそのようなことは、聖書には何も書かれていません。

 みなさんが主人だったらどうするでしょうか。わたしが主人だったら、ものすごく頭にくると思います。だってそうでしょう。人の土地を使ってぶどうを収穫していながら、何も渡さないばかりかしもべを袋叩きにして返すのですから。

 ところがこの主人、お人よしというか、人を信用しすぎるというか、続けて2人目を農夫たちのところに送ります。しかしそのしもべは袋叩きにされ、侮辱され、何も持たされずに帰されます。さらに3人目を主人は送ります。その3人目のしもべもまた傷を負わされ、放り出されます。

 お気づきのように、この主人は、神さまの姿です。旧約聖書には、たくさんの預言者が登場しました。しかしその言葉を人々は無視し、自分勝手に生きていきました。また神さまから与えられたたくさんの恵みも、自分だけのものにしてしまい、手放さずにいました。そのような人間の勝手さに、神さまは辛抱強く、何度も何度も手を差し伸べてこられました。めん鳥がヒナを羽の下に集めるように何度も人々を集めようとされ、いちじくが実をつけるようにその木の周りを掘って肥やしをやり、自分の元から離れ放蕩している息子をじっと待ち続ける。それが神さまの姿です。

 3人のしもべを受け入れてもらえなかった主人は大きな決断をします。それは自分の跡取りである息子を農夫たちの元に遣わすことです。その決断は、神さまがイエス様をわたしたちの元に遣わしたことと同じです。「この子は跡取りだ。きっと敬ってくれるに違いない」、その思いで主人は、そして神さまは、愛するわが子を遣わしたのです。結果はどうだったでしょうか。ぶどう園の主人の息子は、農夫たちに殺されてしまいました。そしてイエス様は、逮捕され、十字架につけられ、殺されてしまいました。この話を聞かされた律法学者たちや祭司長たちは、これは自分たちに当てつけて語られたものだと気づきました。

 ではわたしたちは、この物語をどう聞くのでしょうか。この場には民衆もいました。彼らは思ったでしょう。イエス様は自分たちではなく宗教指導者を批判したのだと。

 だから自分たちとは関係がない。そう民衆は考えました。しかしこのイエス様のたとえからわずか数日後に、民衆はこう叫んだのです。「イエスを十字架につけろ」と。「そいつを殺せ、殺してしまえ」と、大声で叫び続けたのです。

 わたしたちが今日の福音書を読むとき、民衆と同じように「そんなことがあってはなりません」とつぶやくかもしれません。その反応は当たり前のことでしょう。でもそこで止まってはいけないのです。自分はどうなのか。自分は一体どのような労働者なのか。

 神さまからいただいた恵みの中であげた収穫を、わたしたちはどうしているのだろうか。自分のふところの中に入れてしまい、隠してしまってはいないだろうか。その収穫を必要としている人を追い出してはいないだろうか。

 念のために言っておきますが、この「収穫」というのはお金のことだけではありません。神さまがわたしたちに与えられたものはたくさんあります。それらを用いて、必要な務めや働きをなしているのだろうか。その思いをわたしたちは持たなければならないと思います。

 こういう話をしたときに、こんな風に怒られた方がおられました。「わたしたちは精一杯やっています。ちゃんと神さまに十分返しています。そういう指摘をされるなんて、心外です」と。

 「そうですか、素晴らしいですね」。わたしは思います。だってそうでしょう。自分の力できちんとできて、自分の力で神さまの前に正しい者となれるんですから。うらやましい限りです。けれども、わたしはそうはなれません。

 聖書に出てくるファリサイ派や律法学者たちも、同じように考えていました。「自分たちの力だけで大丈夫」なのだと。神さまから与えられた律法を守り、罪人と距離を置くことで自分を清く保ち、神さまの代わりに人を裁いていく。

 彼らには、イエス様は必要なかったのです。自分の力で神さまの元に行けると信じていたから。しかし神さまの目には、その姿は傲慢で、自分勝手で、罪深いものでした。わたしたちはどうでしょうか。この畑は自分が頑張って耕し、このぶどうは自分が汗水流して作ったものだ。だからすべてはわたしのものだと言うのでしょうか。

 それとも、わたしのこの小さな働きを、どうぞ用いてください。すべてのものは主の賜物、わたしたちは主から受けて主にささげたのですと、両手を広げ、すべてをお委ねすることができるのでしょうか。

 イエス様は間もなく、十字架につけられます。それは紛れもなく、わたしたち一人ひとりが生きる者とされるためです。そのイエス様を受け入れ、共に収穫の喜びを分かち合うことができたらと、心から思います。