2023年6月25日<聖霊降臨後第4主日(特定7)>説教

「カミングアウトする勇気」

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 マタイによる福音書10章24~33節

 みなさんはご自分がイエス様に従うクリスチャンであること、まわりの人に伝えるの得意でしょうか? 私はこう見えて、牧師になるまでは大の苦手でした。二つ理由があるように思います。ひとつは、私は自分で選んでクリスチャンになったのではないということです。聖公会やカトリックでは幼児洗礼があり、それを受けた人は生まれつきクリスチャン、ボーンクリスチャンと言われます。その後12歳で信仰を告白する堅信礼を受けましたが、それも牧師の子どもとしては深く考えず、成り行きのような形でした。ですから、私にとって、神さまがいて、神さまを信じるのは空気を吸うように当たり前でありながらも、イエス様を救い主として初めて受け入れた喜びとか燃え上がるような感情を持ったことがないのです。信仰の確信は持ちながらも、牧師になるまではこの喜びをまだ知らない人と分かち合いたいとか、知らせたいというような思いは強く持っていなかったのです。

 もう一つ、なぜ自分がクリスチャンであり、福音を周りの人に伝えるのを躊躇してきたかの理由があります。こちらの方が大きいと思いますが、それは恐れです。今は聖書の時代や隠れキリシタンの時代とは違いますから、自分がキリスト者であることを伝え、どんなにイエスの福音を生きることが素晴らしいかを説いても、少なくとも私たちの国では殺されることはありません。石を投げられることも、暴言を吐かれることもほとんどないでしょう。けれども新約聖書が書かれた頃は違いました。今日の福音書のすぐ前、聖書日課では括弧に入れられている部分ですが、そこには、イエス様が弟子たちに次のように伝えています。「わたしはあなた方を遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ。捕らえられたら鞭打たれ、裁判にかけられるだろう。家族の中で殺し合いが起こり、私の名のためにあなたがたはすべての人に憎まれる。けれど最後まで耐え忍ぶ者は救われるのだ。」こんな時代に生まれなくてよかったと心から思いますよね。そのようなことは、今の私たちの身の回りではまずありません。なのに、恐れるのです。怖いのです。

 相手にどう思われるだろうか。変な奴だと思われないだろうか。それを考えるとカミングアウトできないのです。異質なものを排除するという文化がまだまだ根強い私たちの社会の中で、自分を守ろうとする。それはある意味人間として当然のことかもしれません。でも私たちだけではなく、遠い昔から先輩たちも同じように感じていました。彼らはどのようにその恐れを克服したのでしょうか。今日の旧約聖書はエレミヤ書20章7節からでしたが、紀元前7世紀ごろに預言者として生きたエレミヤでさえ、神さまの言葉を人々に伝えるしんどさ、苦しみを主に訴えています。そのことで人々から笑いものにされ、あざけられ、恥とそしりを受けていました。もうだめだ、できることならやめさせてほしい。なのに、彼は気づくのです。主の言葉は彼の心の中、骨の中に閉じ込められ、火のように燃え上がりつづけているということに。不満をつぶやきながらも彼は神に降参します。「わたしの負けです」。そして、改めて確信するのです。大丈夫だ、何があろうと主が共におられる、主は私の味方でいてくださると。

 次に、もう一度今日の福音書を見てみましょう。これから宣教に出かけようとする弟子たちに対し、イエス様は言われます。「人々を恐れてはならない」。今日の短い箇所、マタイによる福音書10章24節から33節の中に、この「恐れるな」という言葉が3回も出てくるのです。その根拠は何でしょうか? それは、人間は怖くない、私たちが本当に恐れるべきは天の神さまなのだということです。「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われています。本当に恐ろしい審きの神がここでは表現されていますが、イエス様はここで私たちに伝えようとされているのは、神さまの恐ろしさではありません。そうではなく、神さまの大きな愛を知りなさい、そうしたら人間なんて怖くないじゃないか、ということです。市場へ行けば、神殿に捧げるための二羽の雀が一アサリオンで売られている。一アサリオンというのは、今の日本円に換算すると630円くらいらしいです。一羽300円ちょっと。おそらく市場で売られているいけにえの動物の中で一番安いものなのでしょう。そんなちっぽけな動物でさえ、神さまは守ってくださっている。そんな神さまが、あなたたちのことをほっておかれるとでも思うのか? 神さまは、あなたがた一人ひとりの髪の毛の数までも知っておられるんだよ。それほどまでにあなたがた一人ひとりは、神さまにとって値高く、かけがえのない、愛された存在なんだよ。だから恐れてはならない。そう言われているのです。イエス様を人に伝えるのが怖い、自分がクリスチャンだとまわりに知らせるのが恥ずかしいと思うときこそ、神さまはそばにいてくださいます。それはまるで、スピーチコンテストでステージに立つわが子を信じ、舞台袖でこぶしを握り締めながら、固唾をのんで応援する親のように。

 先週もお知らせしましたが、今日の礼拝にカンボジアという外国の地で宣教活動をしておられる嶋田さんご一家が来てくださっています。おそらく彼らは今日私たちに与えられたみ言葉をそのまま生きておられることでしょう。礼拝後にその活動内容を少し報告してくださる予定ですので楽しみにしたいと思います。また今日の夕方には、エキュメニカルバーベキューが行われ、聖公会以外のいろんな教派の教会から大勢の方が来られます。その中で様々な形の宣教があることを私たちは知ることができるでしょう。すごいなぁと感心し、また勇気を与えられるかもしれません。でも、圧倒される必要はないのです。あなたにできる方法で、イエス様を伝えることができたらそれでいい。なぜなら、神さまはあなたの髪の毛までも一本残らず数えられているお方だからです。ようやくヨチヨチ歩きができるようになったわが子に対し、「何をぐずぐずしているの。今すぐウサイン・ボルトを目指して走る練習!」という親はいないでしょう。

 神さまはありのままの私を、そしてありのままのあなたを知ってくださり、愛してくださっています。だから何も怖くはないのです。イエス様を伝えましょう。教会というあたたかい居場所がここにあることを知らせましょう。特に今、暗闇の中でうずくまっている人に。生きている意味が分からなくなった人に。一人ぼっちで悲しんでいる人に。もし、そんな人たちがまわりに見当たらないという方がおられたら、神さまに出会った恵みを、信仰者として生きる喜びを体いっぱいに取り込んで、心に充満させてください。そうすれば、自然と神さまの愛が私たちの体を通してにじみ出てきます。パウロの言葉を借りるならば、私たちのまわりに「キリストの香り」が漂って、それが知らず知らずのうちにイエス様を証ししてゆきます。

 恐れずにカミングアウトしましょう。だれでも人々の前で自分をイエス様の仲間であると言い表す人は、イエス様もまた天の神さまの前で、その人をご自身の仲間であると言ってくださいます。