「目が開かれるとき」
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マルコによる福音書10章46~52節
先週日曜日、みんなでささげる礼拝と、奈良キリキッズフェスティバルが行われ、そのテーマは、「イエスさまのお弟子さんになる」というものでした。この「イエスの弟子になる」というのは、2022年のランベス会議で全世界の教会へ呼びかけられた最初の項目であり、去年の11月に日本聖公会全体で行われた宣教協議会から出された呼びかけの最初の項目でもありました。もう一度原点に戻って、教会に連なる私たち一人ひとりがイエスの弟子であるとはどういうことなのか考えると同時に、この弟子を増やしていくことを真剣に考えようという趣旨です。とてもシンプルでありながら、非常に大切なことだと思います。
このテーマのもと、先週の礼拝の中で読まれた聖書は、当日の聖書日課ではなく、マルコによる福音書1章16-20節、「四人の漁師を弟子にする」という箇所でした。この箇所に基づいて、子どもたちにも分かりやすいように人形劇でのメッセージを行いました。大きな熊のぬいぐるみ、ごんざぶろうは、イエスさまの弟子ってすごいよな、かっこいいよなと憧れて自分もなりたい!と思うのですが、考えてみれば自分は何もできないのです。勉強もできなければ体力もない、何一つ自分が得意とするものがないと落ち込みます。そこへイエス様がやって来て言うのです。何にも要らないよ、キミはキミのままでいい。ただ私のことが好きで私についてきたいと思う気持ちが一つあればそれでいいんだ。ごんざぶろうは喜んで、魚釣りの竿を投げ捨ててイエスさまについていきました。その後、私の言葉で、イエスさまについていくとは、神さまがしてほしいと思うことを、イエスさまと一緒にするということなんだよということを付け加えてお話しました。
でも、このように言うと、私たちは、イエスさまから呼ばれて喜んでついて行ったはいいけれど、その後で、あれをしなさい、これをしなさいと言われるとしんどいなと感じますよね。喜んでついて行っただけではだめなのか?と。喜んでついて行くだけでいいのです。でも一つ覚えておきたいのは、喜んでついて行く前に私たちは既に変えられている、新しい自分に生まれ変わらされているという事実なのです。そこさえ覚えておくと、弟子として神さまが望まれることをイエスさまと一緒にするということは苦痛ではなく、たとえ非常にしんどいと思わざるを得ないことであってもそれは喜びへと変えられていきます。まずは、自分がイエスの弟子であるという前に、神さまからいただいたお恵みを思い出すことが大切なのです。
目の見えないバルティマイは、道端で物乞いをしていました。当時、目が不自由であれば、養ってくれる家族がいない限り食べていく術はほかになかったのです。そこへイエスさまと弟子たちが通りかかります。バルティマイは、必死で空気を探りながら、ありったけの声を出して叫びました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」「ダビデの子」、それは旧約時代からユダヤの人々が待ち望んできたメシア、救い主をあらわす言葉です。そして、「私を憐れんでください!」。この「憐れみ」とは、受けるに値しない者に与えられる神の恵みのことをいいます。自分のちっぽけさ、至らなさ、情けなさ、そして罪深さを知った者のみが心の底から求めるのが神の憐れみです。またこの「憐れんでください」という言葉は命令形で書かれており、直訳すれば、「私を憐れめ!」とか「あなたは私を憐れまなければならない」という非常に強い言葉になります。私たちも毎週の聖餐式の初めに、キリエ・エレイソン、主よ、憐れみたまえ、と歌いますけれども、それは、神さま、あなたの恵みなしに私は生きていけません!という信仰告白でもあるのです。
バルティマイが何度も何度も大声で叫ぶので、まわりの人たちが、うるさい、黙れ!としかりつける中、イエス様は立ち止まり言われました。「あの男を呼んできなさい」。バルティマイは、うれしさのあまり、上着を脱ぎ捨て、おどり上がってイエスのところへ飛んで来ました。彼が脱ぎ捨てた上着とは、おそらく、ぼろ布のようなもので、家もない彼が雨や風をしのぎ、心無い者たちの暴力から自分の身を守る防具のような役目をしていたのでないでしょうか。イエス様に呼ばれた瞬間に、そんなものは必要なくなったのです。イエス様はお尋ねになります。「何をしてほしいのか?」。「目が見えるようになりたいのです」、それがバルティマイの答えでした。
目が見えるようになりたい。なんて切実な願いでしょうか。もちろん、バルティマイにとっては、物理的に目の病を癒してほしいという願いであったのだと思います。けれども、心の中にある本当の目が見えるようになりたい、これは私たち人間が生まれながらにして持つ一番大きな願いなのではないでしょうか。それは、信じることができるようになりたいという願いです。真実を知りたい、生きる意味を知りたい、自由になりたいという魂の叫びです。自分を防御するためにかぶっている上着を脱ぎ捨て、創造主である神さまのみ手にすべてを委ねたい。そう願った瞬間にバルティマイの目が、そして私たち一人ひとりの心の目が開かれるのです。
先週、通信制高校で勉強する息子のスクーリングが志摩であり、付き添ってきました。ずっと不登校だった彼は、初日、授業が始まると、教室の空気が恐ろしくて耐えられなくなってしまいました。トラウマがフラッシュバックしたのかもしれません。なんとか宥めて、先生にバトンタッチし、5時に迎えに来るから頑張れ!大丈夫、できるから!とその場を離れ車に乗り、私も泣きながら、そして必死で祈りながらホテルへ戻りました。そして、5時、祈りが聞かれたことを期待しながら迎えに行くと、息子はどうしてこんなことしないといけないのか、もう死んだ方がましだともっと怒っていたのです。翌朝、もうやめる、帰ると言ってきかない息子を車に乗せ、とりあえず、学校に相談してみようということになりました。すると、みんなと一緒の教室ではなく、カーテンで仕切られた個別に勉強できるスペースがあることを教えてくれたのです。息子はこれなら頑張れるかもということで、無事5日間通って最後には試験も受けることができました。
なぜこの話をここでしたかというと、この経験を通して私の目が開かれたからなのです。私は必死で祈りました。どうか息子を憐れんでください。彼の目が開かれるように、彼が神さまが共にいることを知り、試練を乗り越えることができるようにと。でも、神さまの思いはそこではありませんでした。神さまが開かれたのは、私の心だったのです。心配しなくていい。私はありのままのあなたの息子を愛している。大丈夫だ。それが神さまの答えでした。私は必死で自分の上着で息子を守ろうとし、彼を変えようとしていたのです。でも、それが出来ていたなら、その成功を自分の手柄としてしまっていたかもしれません。ありのままの息子、そしてありのままの私を神さまにゆだねるということができて初めて、イエスさまに従い、イエスさまの弟子として生きることができるのかもしれない。そのことに気づかされました。
本日の特祷には「すべての人の僕となり、わたしたちのために命を捨て、死なれたみ子のように、わたしたちにも隣り人の僕となる心をお与えください」とあります。弟子としての務めは、人を変えることでも、上から目線で人を助けることでもない。ただ、イエスさまが私の僕となってくださったように、私も目の前で助けを必要としている人の僕となる心を持つことなんだ、そのことがすーっと心に落ちた先週の出来事でした。おそらく、これからもずっと心配と不安は続くでしょう。今日は息子の話をしましたが、娘のこともそうです。自分の仕事のことも、健康のことも、認知症の進む母のことも。でも、それでいいのです。辛くなるたびに、バルティマイのように、心の底から「主よ、私を憐れんでください」と叫べばいいのです。そうしたら思いもしない形で目が開かれ、心に光が与えられ、神さまにすべてをゆだねる方法を示してくださいます。そして、後はイエスさまについて行くだけ。ついて行くときには、すでにあなたは変えられ、隣り人の僕となる心が喜びとともに与えられています。自分に自信はなくていいのです。どんな時もこの私を憐れんでくれるお方がおられることに自信を持ち、今週も感謝のうちに歩んでまいりましょう。