2023年9月10日<聖霊降臨後第15主日(特定18)>説教

「ほんとうの教会」

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 マタイによる福音書18章15~20節

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。今日の使徒書、ローマの信徒への手紙12章15節にこのような言葉がありました。喜んでいる人がいたら一緒に笑顔になる。悲しんでいる人がいたら一緒に涙する。これは当たり前のようにできることでしょうか。

 聖書にはいろんな言葉が登場します。「互いに愛し合いなさい」や「思い悩むな」など。イエス様の言葉もあれば、今日の使徒書のようにパウロの言葉もあります。さてこのような言葉は、どうして聖書に書かれているのか。それは、わたしたちはそうありたいと思ってもなかなかできないからです。お互いに愛し合いたいと思っても愛し合えない。思い悩むなと言われてもいつも自分の力で何とかしなきゃと思ってしまう。そして「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」というのも同じなのです。

 たとえば近所の人が宝くじを買って、高額当選したとしましょう。あなたにニコニコしながら言う訳です。「まさか当たるとは思ってなかったけど、本当にびっくりしたのよ。うれしいわ。さあこのお金で海外旅行に行って、家もリフォームして」。あなたは最初こそ笑顔を返し、「よかったねぇ」と言ってあげるかもしれません。でも海外旅行に誘ってくれるわけでもなく、ついでにあなたの家のお風呂も直しましょうかと言ってくれるわけでもなく、自分の話ばかり。どうでしょうか。ずっと一緒に喜んでいられるでしょうか。「ちょっと忙しいんで」とその場を離れる方も多いのではないでしょうか。わたしたち人間の心には、「妬み」という感情があります。他人が心から喜んでいるのに、素直に喜べない。それどころか、その幸せがなぜ自分の元に訪れなかったのかと思ってしまう。「喜ぶ人を見たら妬む」、それがわたしたちなのかもしれません。

 では、悲しむ人がいたらどうでしょうか。いつも一緒に悲しめますか。多くの場合、「悲しむ人と共に悲しむ」、それは出来ているように思えます。災害の現場に行ったとき、お葬式に参列したとき、いろいろな場面でわたしたちは、同情の涙を流します。しかし一方で、日本語にこんな言葉があるのも事実なんですね。「人の不幸は蜜の味」、ネットで意味を調べてみると、こうありました。「他人の失敗や不幸を見聞きすることで喜びなどの快感を得ること」、逆に「他人の幸福は飯がまずい」という言葉さえあります。ワイドショーや週刊誌など、人の目につく記事は、政治家や芸能人のスキャンダル。多くの時間をかけ、たくさんのページを割くのは何故か。それは人々が知りたがるから、読みたがるからです。そしてどん底に落ちてしまった人を見て、ほくそ笑むのです。「前からあの人、おかしいと思っていたのよ」。

 これがわたしたち人間の本性であれば、少し悲しくも思えます。でも実際、よほどの聖人でもない限り、多かれ少なかれこのような部分があるというのは、まぎれもない事実なのですね。だから聖書は語るのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と。

 完全には出来なかったとしても、そうなるように願う。少しでも近づけるようにと求める。なぜそれが必要なのでしょうか。それは今日の福音書、イエス様の言葉につながっていくからです。

 今日の福音書、マタイによる福音書18章19節には、このように書かれていました。

 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

 まず、「はっきり言っておく」という言葉があります。これは日本語にすると分かりづらいのですが、元々の言葉を残しながら訳すとこうなります。「アーメン、わたしはあなたがたに言う」。わたしたちがお祈りのときに最後に用いる「アーメン」という言葉を、イエス様はこの文章の最初に語ったのです。「アーメン」とは、「そのとおりになりますように」という意味です。お祈りの最後にアーメンと言うことで、その祈りが神さまのみ心に適いますようにという願いをわたしたちは告げています。

 ではイエス様の「アーメン」には、どのような思いがあるのでしょうか。それは「あなたがたにはそうあってほしい」という強い思いです。つまりここでは、「心を一つにして求める」ということを、イエス様は強く望まれているのです。

 心を一つにするということ、それは先ほどから離している「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」ということに他なりません。目の前にいる人に共感し、同じ思いをもって歩んでいくことです。

 それがなかなかできない一番の原因は、相手を変わらせようとするからかもしれません。自分の思いに相手も合わせるべきだ、自分の主張を相手も飲むべきだ、自分を正しい者、正義と位置づけ、相手に対してこっちに来いと手招きする。それではいつまで経っても、「心を一つに」なんてことは無理です。

 ではどうするか。自分の方から近づくのです。一歩でも、いや半歩でもいい。自分の思いではなく相手の思いを大切にする。すぐにすべてが一つになるなんてことはありません。お互いに近づいていったとしても、完全に一致することはないでしょう。

 でもそこに、一緒にいてくださる方がいるのです。先ほどの箇所の続きである18章20節にこうあります。

 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 完全に一つになることが出来なかったとしても、その真ん中にわたしたちをつないでくださる方がおられます。イエス様です。イエス様の名によって二人または三人が集まり、心を一つにしたいと願いながら祈る場所に、イエス様がいてくださる。その場所こそが、本当の教会なのです。教会というのは、決して建物だけを指すものではありません。心を一つにしようと願い祈る人々の真ん中に、イエス様がいてくださるのです。

 別の箇所で、イエス様はこうも言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と。ぶどうの木であるイエス様に、わたしたちはぶどうの枝として連なっています。

 ぶどうの枝はそれぞれ別な方に伸びていき、また形も様々です。一つとして同じものはありません。しかしみなつながっている。イエス様を通じて、みんなつながっているのです。それが「一つ」ということなのではないでしょうか。 お互いの違いを認め、大切にしながらイエス様によって一つとなる。それこそが、わたしたちの目指す教会のあり方だと思います。「本当の教会」を目指して、歩んでいくことができればと思います。