日ごとの聖書(9月11日)

本日の通読箇所「出エジプト記15:22~24」

マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。

(出エジプト記15章23節)

エジプト軍から逃れ、イスラエルの人々はシュルの荒れ野に入っていきます。荒れ野は聖書によく出てくる場所で、岩がゴツゴツした何もない寂しい場所です。人が長期間、いることができる場所ではありません。イエス様が40日間、悪魔の誘惑を受けたのも荒れ野です。

また荒れ野には、「神さまを感じることができる場所」という側面もあったようです。洗礼者ヨハネは荒れ野で宣教をしましたし、イエス様もたびたび荒れ野で祈りました。何もないからこそ、神さまの恵みを感じることができたのです。

しかしイスラエルの人々は、荒れ野で不平を言います。飲み水がなかったからです。あるのは苦い水だけ。水は命を維持するのに、必要不可欠なものです。彼らの不平は、間違っているでしょうか。