2023年12月17日<降臨節第3主日>説教

「道を備える」

YouTube動画はこちらから

 ヨハネによる福音書3章23~30節

 今日の場面には洗礼者ヨハネが、このように語る場面が記されています。

 天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。

 洗礼者ヨハネが「あの方」と言ったのは、イエス様のことです。聖書にある4つの福音書にはそれぞれ、イエス様と洗礼者ヨハネとの関わりが書かれています。その中でも一番洗礼者ヨハネのことについて書かれているのは、ルカ福音書でしょう。

 ルカ福音書には、洗礼者ヨハネの両親であるザカリアとエリサベトという高齢の夫婦が出てきます。あるときザカリアに、エリサベトが赤ちゃんを身ごもるという天使のみ告げがあります。ガブリエルがマリアに受胎告知をしたのと同じようにです。

 その後お互いの母マリアとエリサベトは出会い、会話もします。そして洗礼者ヨハネが誕生し、その半年後にイエス様が誕生します。このようにお互いの出来事が交差しながら、進んで行くわけです。その中でわたしたちに与えられたメッセージは、洗礼者ヨハネは先駆者として、つまり道を備える者として、働いてきたということです。洗礼者ヨハネは、今日の福音書の中でこう語りました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と。自分の役割は終わった。あとはイエス様が来て、導いてくれる番だ。そのような思いがあったのだと思います。

 さて、この洗礼者ヨハネですが、旧約最後の預言者だと言われることがあります。ではみなさんは旧約聖書ってどんなイメージを持っているでしょうか。毎週礼拝でも読まれていますが、実際のところ旧約聖書のすべてを読んだと言う方、どれほどおられるでしょうか。今年2023年には一年間かけて、創世記と出エジプト記を読んでいきましょうと呼びかけていました。いろんな意味で読み進めるのがきつい場面も多くありました。たとえば幕屋、今でいう礼拝堂でしょうか、その材料がどうだとか、寸法がどうだとか、そこに置く机にはどんな装飾をするだとか、そのために金をどれだけ使うとか、いろいろ書かれます。それを知って、何になるというのか、と正直思ってしまいます。同じものを自分たちも作ろうとは、まあならないんですね。でもそれ以上にしんどい思いを持って読み進めていた部分があります。

 それは、イスラエルの人々以外の人権が、まったく無視されているということです。そもそも旧約聖書の考え方は、救いはまずイスラエルの人々に与えられるということにありました。そしてそれが、他の民族や人々にも広がっていく、そのような順番なんだと考えられていたわけです。だから出エジプト記の中のエジプトの人たちや、約束の地に住んでいたカナンの人たちなど、その命が軽く扱われているようにしか思えない記述が出てきます。さらにその人たちの存在が無視されているような思いさえ持たされることもあるのです。

 また別の視点から見ると、旧約の人たちは何か怯えながら生きていたようにも思います。様々な決まりごとが与えられ、それを守るのに必死な彼ら。さらにお互いがお互いを監視し合い、裁き合うということが当たり前の様になされていたわけです。

 洗礼者ヨハネが登場したとき、人々はこぞって悔い改めの洗礼を受けに、ヨハネの元にやってきました。それは、神さまの裁きが間もなくやって来るという叫び声を聞いたからです。自分たちがどうしても罪から離れられない、そのことを知っていたから、われ先に悔い改め、罪の赦しのための洗礼を受けるために集まったのです。それが旧約聖書における、神さまと人々との関係でした。人々は神さまを畏れ、裁きを恐れながら生きていいたわけです。

 わたしが子どものころ、まだキリスト教とは出会っていないとき、神さまは怖い存在でした。「こんなことしたら神さまに怒られるよ」、「これじゃああなたは地獄に堕ちて、閻魔様に舌を抜かれるよ」、そんな教えに震えていました。

 それと同じような状況が、イスラエルの人々にあったのかもしれません。神さまは恐るべき存在、遠くから見張られ、また顔を見てしまうと死んでしまう。でもこれって、いつの間にか人間によって作り上げられた、勝手な神さまのイメージなのかもしれません。神さまの思いは、実はそうではなかったのです。ヨハネ福音書3章16節にある「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉こそが、神さまのみ心だったのです。

 今日の箇所は、そのようにイエス様が語られた直後のものです。洗礼者ヨハネがイエス様から直接この言葉を聞いたのではないでしょうが、その神さまの思いは、彼の元にも伝わっていったのだと思います。そしてその言葉を受け、洗礼者ヨハネは決断しました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と。

 イエス様の言葉の中で強調されていたのは、裁きや悔い改めではなく愛でした。神さまの愛が前面に出される。神さまはわたしたち一人一人を愛しておられる。それこそが神さまの本当の思いであり、イエス様をこの世にお遣わしになった本当の意味なのです。

 自分の役目が終わり、洗礼者ヨハネは表舞台から姿を消します。それも自分が思っていた裁く神さまではなく、愛する神さまが伝えられていきます。さぞかしヨハネは、悔しがったのではないか、そう思いませんか。しかし彼はこう言いました。「わたしは喜びで満たされている」と。彼には後から来る方が、人々をどのように導くのか、よく分かったのだと思います。自分がこれまで道を備え、人々に「神さまの方に向き直れ」と言った意味、それは本当の神さまの姿に気づかせることにあったのだということを知り、あとはイエス様にお任せたしたのです。

 わたしたちは今、間もなく訪れる御子の誕生を記念する日を、共に待ち望んでいます。それは恐ろしい日ではありません。裁きから逃れるために何とかしなければと考える必要もないのです。

 わたしたちが待ち望むのは、喜びの日です。その喜びがすべての人に伝えられるよう、わたしたちはそれぞれの遣わされた場所で与えられた賜物を生かし、また神さまの愛がすべての人に与えられるようにと祈り続けるのです。

 わたしたち一人ひとり、喜びをもってイエス様を心に受け入れていきましょう。その愛に感謝し、わたしたちの周りにいる人たちにもその愛が注がれるようにと、絶えず祈りましょう。クリスマスの喜びが、みなさんの上に豊かにありますように。