2022年3月20日<大斎節第3主日>説教

「悔い改め」

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 ルカによる福音書13章1~9節

 イエス様が活動されていた当時のユダヤには、何か悪いことが起こるのは神さまからの罰だという考えがありました。裏を返せば、普通に生きている自分たちは大丈夫。普段、お祈りしているし。ささげ物もしているし。彼らとは違い、救われるはずだ。そのように考えていました。だから今日の箇所に出てくるガリラヤ人やシロアムの塔の話を聞いてもこう思ったのです。

 「かわいそうだけれども、彼らは罪を犯したからそんな目にあったんだ」と。でもこの考え方、もしかしたらわたしたちの心の中にも、同じようにあるのではないでしょうか。

 しかし、その心を見透かされているのか、イエス様は語られます。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。それでは「悔い改め」って何でしょう。辞書を調べてみると、一般的な意味としてこのように書かれていました。「以前に悪かった点を反省して、改めること。後悔」。前のテストのときには直前になって準備をして失敗したから、今回は早い時期から計画を立てて頑張ろう。こういうことでしょうか。

 しかし聖書で用いられる「悔い改め」は、日本語でわたしたちがイメージする意味とはちょっと違います。原語であるギリシア語の本当の意味は180度向きを変える、つまり回れ右をすることを意味します。

 ちょっとよそを向いていたのに気づき、神さまの方に向き直ろうという程度のことではありません。神さまに背を向け自分の思いだけで生きて来た過去と決別し、グルンと回れ右をして神さまに向き直る。そのダイナミックな心の変化こそが「悔い改め」なのです。この「悔い改め」をイエス様から促されているということ、これは紛れもない事実です。でもそうは言われても、というのが、もしかしたらわたしたちの本音なのかもしれません。自分の弱さや汚い部分に気づかされ、自分を変えたい、神さまに向き直りたいと思っても簡単ではない。わたしたちは大斎のたびに、そう思わされるのです。

 今、毎日少しずつ福音書を読み進めながら、その単元ごとの短いコメントをホームページにアップしています。現在マタイによる福音書の後半に差し掛かっていますが、予想はしていたことですが、21章を超えたあたりから読むのも辛くなっていくんです。というのも、悔い改めや裁き、滅びといった言葉が次々と出てくるからです。これはマタイでは25章26章のイエス様の逮捕、十字架の場面に至るまで続いて行きます。つまりイエス様は、ご自分が十字架につけられるその直前まで、人々に語り続けたわけなのです。このままではダメだ。悔い改めなさい。そうしないと滅びるぞと。その声だけを聞くと、わたしたちには絶望しかないかもしれません。そんなことを言われても、どうしても悔い改めることのできない、神さまに向き直ることができない弱さがあるのです。

 ファリサイ派の人たちや律法学者は、自分たちは神さまの方を向いていると思っていました。だからイエス様の言葉に耳を貸すことはありませんでした。わたしたちはどうなのでしょうか。「どうしたらいいんですか、イエス様」。そう叫ぶときに、今日のもう一つの話がわたしたちの耳に届くのです。

 今日の箇所の後半でイエス様は、実のならないいちじくの木のたとえを語られました。植えてから3年も経つのに実を結ばないいちじくの木を、主人は切り倒せと命じられます。植物相手にひどいなあと思います。

 ただここで、いちじくの木は人にたとえられています。イエス様が宣教を始めて十字架につけられるまで3年といわれますが、その3年をもってしても実を結ばなかったことをイエス様は言われているのです。その言葉の対象は、一義的には2000年前のユダヤ人なのでしょう。しかし今、ここで聖書の言葉に耳を傾けているわたしたちに対しても、イエス様は語られています。「いつになったら悔い改めの実を結ぶのか」と。

 わたしたちもまた、今にも切られそうな、実を結ぶことのできないいちじくの木です。そのいちじくの木ですが、聖書をよく読むと、ぶどう園に植えられたと書かれています。豊かな実を結び、たくさんの人を笑顔にするぶどうの木の中で、一本だけポツンといちじくの木が植えられている。なぜ自分はダメなのだろう。周りのぶどうの木のように実をつけることができずに、人々から目を向けられることもないいちじくの木。そしてぶどう園の主人の声が聞こえます。「こんないちじくの木は切ってしまえ」。その声が大きく響き渡るのです。

 その状況を思い描いたときに、自分の姿といちじくの木とが重なり合うように感じるのはわたしだけではないと思います。実を結びたいけれども、それができない。周りの人と自分とを比べてしまう。どうしようもない現実に、わたしたちはなすすべがありません。

 しかしそこに登場するのが、園丁なのです。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。来年は実がなるかもしれません」。この園丁は、誰なのでしょう。そう、イエス様です。

 イエス様は「いちじくの木を切り倒すべきだ」というぶどう園の主人の言葉に対し、「いや、待ってください」と懇願します。そこにあるのは、いちじくの木であるわたしたちを生かしたい。簡単に滅ぼすことはしない。その思いなのです。

 そしてイエス様は、十字架へと向かわれます。十字架の死、それはわたしたちの罪を背負い、わたしたちの代わりに血を流すことでした。わたしたちと神さまとの間にある大きな溝を埋めるために、イエス様は自らをささげられたのです。イエス様は十字架で血を流すことによって、自ら肥やしとなられました。わたしたちを生かすために、何とか生きる者となるために、そのために神さまはイエス様を遣わし、イエス様はわたしたちに園丁として関わってくださるのです。

 いちじくの木は来年、本当に実を結ぶのでしょうか。それはわかりません。わたしたちも同じです。今年ダメなら来年こそは、などという簡単なものではないことは、誰よりも自分自身がよく知っています。しかしたとえ来年実を結ばなかったとしても、イエス様は「もう一年!」と頼んでくださるはずです。

 悔い改めの実を結ぶこと、自分の力で神さまに向き直ろうとしても、とても難しいことです。今すぐできることではないかもしれません。

 しかしわたしたちは、今この瞬間も、イエス様との出会いの中でその愛を与えられ、命をいただいています。わたしたちがそのことに気づかされ、新たに生まれるそのときに、ようやく神さまに向き直ることができるのではないでしょうか。