「神さまは不公平?」
YouTube動画はこちらから
マタイによる福音書20章1~16節
難しいテーマが続いています。先週は「ゆるし」、そして今週は「ねたみ」です。人を赦せない気持ちもたいがいですが、人を妬む感情は本当に嫌なものです。単に「うらやましい」だったらまだ憧れの感情も入るかわいいイメージがありますが、「ねたみ」には「憎しみ」が伴います。そしてそれは、必ず自分自身がハッピーではない時、満たされていない時に不意に湧き上がってくる感情なのです。
子育てをしている方はお分かりと思います。うちにも十代の年子がおりますが、二人は何から何までまるで違います。顔も似ていなければ、性格も考え方も話し方も生活習慣もまるで違う。母親である私は、二人を同じように自分の命よりも大切なかけがえのない宝物として愛していますが、それぞれへの愛し方は異なります。たとえば、上の子は女の子ですから、毎晩一緒にお風呂に入り、その日学校であったこと、友人関係の悩み、家族のこと、進路のこと、推しのこと、なんでも話をします。お風呂あがってからも、彼女の部屋のベッドに二人で横たわっておしゃべりが深夜まで続くこともあります。下の子は男の子ですから同じことはできませんが、その代わりに週に何日かは彼と一日中一緒にいる日を作っています。不登校でいわゆる通常の学校には行っていませんから、割と自由に映画を観に行ったり、博物館へ行ったり、ドライブしたり、ゲームをしたりできて、その中でたくさん笑い、たくさん話すわけです。小さい頃は二人を一緒くたにして、親と子どもたちという関係の中で関わっていましたが、中学生になったころから、二人には自分が親から愛されていることを知らせるための別々のアプローチが必要であることに気づかされたのです。
けれども、そうすることによって、何度も、二人から互いのことを「ずるい」という声が上がりました。私が、自分にはしてくれないことをあいつにしている、あいつにはしなくていいと言っていることを自分はさせられている、というような具合です。いやぁ、こっちの身にもなれよ、大変なんだよ!と叫んだこともありました。でも、成長するにつれ、徐々に互いに対する妬みの気持ちが小さくなっていき、互いを受け入れ、私や夫にもよく感謝の気持ちを表してくれるようになってきました。そう、大人になってきたのです。けれども、よくよく考えてみると、なにより、二人ともそれぞれ、今、満足しているのです。
私たちの人生には本当に色々あって、理不尽だと思うことが山のようにあるけれども、結局のところ、自分は愛されているという確信さえあれば、ねたみという感情はなかなか大きく出てこない、たとえあったとしても、小さく心の奥底に転がるくらいのものなんじゃないかなと、私は自分の子育てを通して思うようになりました。でも、この愛されている確信をずっとキープできないのが、私たち人間です。どうしても、自分と比べてまわりの人がどうであるかに目が行ってしまい、そのうちに自分がどれほど愛され、恵まれた存在であるかということが薄れていき、見えなくなってしまうようです。
今朝の福音書、「ぶどう園の労働者のたとえ」はまさにそのことを伝えているのではないでしょうか。ある家の主人が、自分のぶどう園で働いてくれる人を雇うため、夜明けに街の広場へ出て行きました。そこにいた何人かの人に一日1万円という額の賃金を支払う約束して、ぶどう園へ連れていきました。しかし今年のぶどうの実りはすごくて全然手が足りません。9時になって、主人は再び広場へ戻り、何人かを雇い、その後も12時と3時にまた広場でそれぞれ何人かの労働者を見つけてぶどう園へ連れて帰りました。さあ、日が暮れるまであとちょっとだ、頑張ろう!と労働者たちが最後の仕事にとりかかろうとしていた午後5時、主人はまた広場へ出かけます。ぶどう園は後1時間で閉まります。ぶどうもほぼ摘み終わりました。それなのに、広場にいた人たち、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と声をかけ、彼らをたった一時間だけ雇ったのです。
さあ、仕事を終える時間が来ました。午後6時です。主人はぶどう園の監督に言いました。「最後に来た者から順番に賃金を支払ってやりなさい」。さっき1時間前に来たばかりの人たちが最初に受け取りました。封筒を開けるとなんと1万円が入っています。どんなに驚いたことでしょう。たった一時間働いただけ、それも後片付けしかしてないのに、1日分いただけるなんて! 次に午後3時、正午、そして午前9時に雇われた人たちが次々と賃金を受け取ります。封を開ける人たちの顔色が少し違ってきました。互いの顔を見合わせて何かぶつぶつ言っています。最後に早朝6時から丸一日、働き続けた人たちの番がやってきました。「最後に来た人の数倍はもらえるに違いない、いや1時間1万円なんだから俺たちは10万円か?」 楽しみに封筒を開けると、中に入っていたのは、5時からたった1時間だけ働いた人たちと全く同じ1万円だったのです。早朝から働いた彼らは主人に食ってかかりました。「あり得ない! こんな不公平なことありますか? 詐欺ですよ!」
主人はやさしく言いました。「友よ、何を怒っているんですか。あなたはわたしと1万円の約束をしましたよね。さあ、自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはただ、これらの最後に来た人たちにも、あなたと同じように支払ってやりたいのです。わたしの好きなようにしてはいけませんか? それともわたしの気前の良さをあなたはねたみますか?」こういうお話です。
いや、絶対ねたみますよね。いくら神の国はこうなのだと言われても、神さまはご自分のしたいようにするのだと言われても納得できません。そしておそらく、今この福音を聞く私たちの多くが、「ずるい」と思う側にいるのでないでしょうか。しかし、もう一度、この主人の言い分を聞いてください。14節の後半です。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」そう言われているのです。たとえ話の中で、1万円とか1デナリオンという額を考えるのでおかしくなるのですが、私たち一人ひとりを愛してやまない神さまは、最後1時間だけ働いた人にも、10時間働いた人にも、同じようにあり得ないほどの大きな恵みをお与えくださっているということを改めて思い出したいと思います。
このたとえ話の続きを私は想像するのです。怒りに沸騰した頭を主人にポンポンと撫でられた労働者は、自分を包み込むような主人の温かい笑顔を見ながら、一息つき、思い出します。そうだ、朝6時に来た僕らは、主人が用意してくれたとびきりの朝食をいただいた。目玉焼きにカリカリベーコン、パンが食べ放題、美味しいスープまでついていた。お昼も豪華だったし、3時のおやつに出て来た美味しいコーヒーと手作りケーキも絶品だった。喉が渇いたらいつでも収穫したぶどうを食べさせてくれたし、休憩時間にはいろんな自分の悩みを聞いてくれた。なんだ、よくよく考えたら、最後1時間来て1万円もらったやつより、どんなに大きなお恵みをいただいていることだろう!賃金の額だけ見て憤慨した自分がどんなに愚かだったことか。ああ、恥ずかしい。本当にここの主人は愛のお方だったんだ。僕も、これから、この主人に倣って生きていこう。
神さまは不公平なお方なのでしょうか。確かに不公平だと思えることもあります。けれども、私たち一人ひとりに対する神さまの大きな愛を思い出すとき、心の中から不満は消えていきます。それどころか、その愛を受けて、新しくされた人生を生きていきたくなる、愛を受けるばかりでなく、愛を与える人にならざるを得なくなる。それがイエス様に従う生き方であり、そこに小さな神の国が少しずつできていくのです。
教会は、いつも私たち一人ひとりが神さまから愛されているということを思い出させてくれる神の国の先取りです。皆さんの上に、私たちには計り知れない神さまの大きなお恵みと祝福がありますように。