2024年12月8日<降臨節第2主日>説教

「悔い改めって?」

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 ルカによる福音書3章1~6節

 この降臨節には必ず、洗礼者ヨハネの物語が読まれていきます。今年は特にC年でルカによる福音書が中心に読まれていますので、この洗礼者ヨハネがどういう人物だったのかというところから少しお話ししたいと思います。

 ルカによる福音書1章5節以降には、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」という物語が載せられています。あるところにザカリアとエリサベトという夫婦がいました。ザカリアは神殿に仕える祭司でした。二人とも神さまの前に正しい人でしたが、二人には子どもがいませんでした。当時のユダヤでは子どもが与えられることが神さまの祝福の証しとされていたので、子どものないことで二人は胸を痛めていたことだと思います。ただ、エリサベトはすでに高齢でした。ところが神さまはザカリアの前に主の天使を遣わされ、エリサベトが男の子を産むことを予告します。そしてその子は、このような人物になると告げるのです。つまり洗礼者ヨハネは誕生のときから神さまのご計画の中にあり、「主のもとに立ち帰らせる」「主に先立って行く」ということをその働きの中心とするように決められていたのです。

 その6か月後に天使ガブリエルは、イエス様の母マリアに対してイエス様を身ごもることを予告します。いわゆる受胎告知です。そのマリアとエリサベトは親戚関係であったので二人は出会い、お腹の赤ちゃん同士も出会います。

 その後洗礼者ヨハネは誕生し、その半年後にイエス様が誕生します。このように洗礼者ヨハネとイエス様は、その誕生の次第から神さまのご計画の中で、関わりあっていたということです。

 洗礼者ヨハネの任務は「主のもとに立ち帰らせる」、「主に先立って行く」ということです。彼が人々に宣べ伝えたのは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」でした。教会では、来週洗礼式がおこなわれます。わたしたちが大切にしている洗礼式とは、どのようなものでしょう。洗礼者ヨハネの語る「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とはどう違うのでしょうか。

 まず洗礼者ヨハネが伝えた「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」について、少し考えてみたいと思います。二つのことが書かれています。一つは「罪の赦し」。そしてもう一つは「悔い改め」です。罪の赦しとはまず、どういうことでしょうか。罪というのはわたしたちが日常的にしてしまう「悪いこと」とは少し違います。それよりももっと根本的なこと、神さまとの関係において起こることです。罪という言葉には、「的外れ」という意味があり、簡単にいうと神さまの方を向かず、よそを向いて、そっぽを向いて歩んでいることです。それどころか自分の方だけを見ていることだってあるでしょう。それをなかったことにしてくださる。もういいよと受け入れて下さるのが、罪の赦しです。

 そして洗礼者ヨハネは罪の赦しのために、「悔い改め」をしなさいと語ります。悔い改めとは向きを変えること、それも180度方向転換をする。神さまに背を向けて歩んできた生活をやめて、神さまに向き直りなさいというのが、彼が伝える悔い改めです。

 とても大事なことだし、この降臨節にわたしたちも心に留めたいことです。しかし一方で、本当にわたしたちは自分の力だけで神さまに顔を向け、歩むことができるのだろうかという思いも持ちます。洗礼者ヨハネは実は、旧約最後の預言者と呼ばれることがあります。旧約というのは古い約束という意味です。

 旧約の時代、神さまは人間に対して十戒という掟、律法を与え、これを守ることができるのならあなたたちをわたしの民としようと約束されました。律法、それは神さまの前に正しく生きるということです。しかし人は誰一人、正しくありえませんでした。

 律法がわたしたちに教えてくれたもの、それは、わたしたちは誰も完全な者にはなれないということです。洗礼者ヨハネの言う悔い改めも、本当の意味で行うことができないのです。

 ではわたしたちの洗礼式は、どうなのでしょうか。何かを達成することができて、わたしたちは洗礼式に向かうのでしょうか。洗礼式の中でおこなわれる「誓約」というところで何が言われているのか、心を向けて頂けたらと思います。誓約では、一人一人が司式者の問いかけに対してこのように答えていきます。

 たとえば、こんな質問があります。「あなたは、あなたを神の愛から引き離す、すべての罪深い思いと言葉と行いを退けますか」。みなさんだったらどう答えるでしょうか。洗礼式の場面です。人もたくさん見ています。ちゃんとここで格好いいこと言っておかないと、洗礼を受けさせてもらえないかもしれない。だから、「そりゃあ、退けますよ。すべての罪深いものを、わたしはしっかり退けます」と言い切るのが正しい、そうでしょうか。

 洗礼を受ける志願者の方は、誓約の際にこのように答えます。「神の助けによって退けます」と。他にもいろいろ質問がありますが、「神の助けによって戦います」、「神の助けによって受け入れます」、「神の助けによって寄り頼みます」、「神の助けによって努めます」としつこいくらい何度も、「神の助けによって」という言葉を使います。実はわたしたちの信仰において、この「神の助けによって」ということがとても大切なんですね。旧約の最後の預言者である洗礼者ヨハネの言葉は、わたしたちの心をかき乱します。来週読まれる箇所には、もっと厳しい言葉が並んでいきます。

 ではわたしたちは、洗礼者ヨハネのとても厳しく、激しい言葉をどう受け止めたらよいのでしょうか。それは、「自分の力だけでは無理」ということです。こういう言い方をすると、とても後ろ向きに聞こえるかもしれません。でもそうじゃないんですね。旧約の律法もそうです。わたしたちはこれらのことによって、「自分じゃ無理、だからイエス様が必要」ということに気づかされることが大切なのです。

 イエス様の降誕を待ち望むこの降臨節に、わたしたちは洗礼者ヨハネの言葉を聞きます。わたしたちはどれだけ頑張っても、思いと言葉と行いによって罪を犯してしまう。毎週その事実に気づかされ、礼拝の中で懺悔しています。ただ神さまはそのようなわたしたちを愛してくださいます。欠けたところが多く、神さまにではなく自分の方を向いて歩むことが多いわたしたち。いつもそのことに気づかされ、暗闇に身を置いてしまうわたしたち。そのわたしたちに、光を与えてくださるのです。神さまはわたしたちが暗闇の中にうずくまり、苦しみ続けるのを良しとされませんでした。わたしたちが生きる者となるために与えられた光、それが神さまの独り子、イエス様なのです。

 そのご降誕を、心から待ち望みましょう。その中で、わたしたちへの神さまの愛を、たくさん感じることができればと思います。そしてこの神さまの愛をまだ知らない人たちに、この喜びの訪れを伝えて行くことができれば、とてもうれしいことです。よきクリスマスとなるよう、お祈りを続けてまいりましょう。