2022年6月5日<聖霊降臨日>説教

「罪を赦すということ」

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 ヨハネによる福音書20章19~23節

 本日は聖霊降臨日、ペンテコステです。聖霊とは何でしょうか。今日読まれた聖書、使徒言行録には弟子たちに起きた、ある出来事が伝えられています。2章4節にこうあります。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。聖霊を受けることで、いろんな国の言葉が話せるようになった。じゃあ英語どころか関西弁もうまく操れないわたしは、聖霊を受けてはいないのか。そういう単純なことではないと思います。

 聖霊によって、お互いのことが理解できるようになった。言葉の壁というものだけではなく、それまで人々の間にあった様々な壁が取り除かれ、福音が広がっていくきっかけとなったというのが大切なことなのです。

 同時にこの聖霊降臨日が、「教会の誕生日」として覚えられているということも、押さえておきたいと思います。壁が取り払われ、神さまの恵みがすべての人に対して開かれた結果、教会が生まれました。つまり、なんの敷居ももたないのが教会なのです。

 逆に言いますと、様々な理由をつけて、あの人は嫌だ、この人はわたしたちと一緒にいるのはふさわしくないと排除していく共同体は、教会ではないということです。それは単なる人間的な集まりでしかなく、神さまによって建てられた教会ではなくなるのです。

 そして聖霊は、わたしたちが教会共同体の一員として働くために、わたしたち一人ひとりに与えられたものです。それではその聖霊を与えられたわたしたちは、どのような者に変えられていくのでしょうか。

 ヨハネ福音書にはこのようなイエス様の言葉が書かれています。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。

 罪を赦す。それが教会集うわたしたち一人ひとりに与えられた使命だと捉えることができます。事実多くのカトリック教会には告解室という懺悔をする部屋がありますし、わたしたちが用いている祈祷書の中にも「個人懺悔」という項目があります。

 でも同時に思うわけです。「罪を赦す」などという大それたことを、わたしたちのような者ができるのだろうかと。たとえば今日の福音書の場面、復活のイエス様が弟子たちに聖霊を与えながら語られたのですが、肝心のその弟子たちはイエス様が十字架につけられたときに、逃げ出していたわけです。一番弟子のペトロなどは、三度もイエス様のことを知らないと言った。その後ろめたさもあってか、イエス様が復活なさったと言うことを聞いても怯え、震え、家じゅうの戸に鍵を掛けて隠れていたのです。

 その弟子たちに対して、「あなたがたが赦せば」とイエス様は言われます。おかしな話です。罪を赦す人はある程度、罪とは無縁の潔白な人。普通はそう考えます。裁判官が汚職まみれでどうしようもない人だったら、その判決に耳を貸す人はいったいどれほどいるでしょうか。

 でも、教会の「赦し」とは、そういうことではないのです。弟子たちは弱く、そして罪深い人たちでした。でもイエス様はそんな彼らを用いようとされました。教会を作っていく礎として遣わされました。教会もそうなんです。わたしたち一人ひとり、誰一人として罪から全く離れ、完全に正しい人間などおりません。わたしたち、と申しました。そのわたしたちには、当然「わたし」、牧師も含まれます。

 聖公会の聖餐式の中で、そのことが明確にあらわされているところがあります。聖餐式式文の「懺悔」というところです。聖餐の交わりに向かう前に、自らが思いと言葉とおこないによって多くの罪を犯していることを懺悔する場面です。

 ここでの一番の特徴は、まず司祭が懺悔するということです。「さあ、あなたたち。罪を告白しなさい。わたしがみなさんのために祈ってあげよう」ではないのです。まず司祭自らがどうしようもなく弱い者であること、そして罪を犯し続けていることを告白し、神さまに憐れみを乞う。そして会衆のみなさんに「祈ってください」と願うのです。

 その祈りの後で今度は司祭が会衆のためにとりなしの祈りをし、食卓へと向かっていく。つまり言うなれば、この食卓は罪人たちの宴会です。それぞれが思いや言葉やおこないによって罪を犯し続けながらも、共に食卓に集う。それが主の食卓なのです。

 イエス様は別の箇所で言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。イエス様に招かれ、イエス様に倣って生きていくわたしたちは、そして教会は、罪人である自分たちを自覚しながら、しかしそれでも受け入れてくださることを喜ぶのです。

 罪を赦す、この「赦す」という漢字は、わたしたちが普段用いている漢字、ごんべんに午前午後の「ご」という漢字とは違うものが使われています。あかへんに「のぶん」というつくりの字は、恩赦の「しゃ」という文字です。

 さて、ではこの聖書が書く「赦す」とはどういう意味なのでしょう。わたしたちが普段使う「許す」というイメージは、その相手の人の罪をないものとする。無罪放免。そういうことなのではないかと思います。

 しかし聖書の「赦す」は、こういうことです。「なすがままに任せる」、「ほおっておく」。イメージつきますでしょうか。イエス様はある場面で一人の人に言われました。「あなたの罪は赦された」。これはその人の罪がないものにされた、つまり真っ白な人間に変えられたというのではないのです。

 その人の罪のことなど、イエス様にとってはどうでもよいのです。そんなことはどうでもいい。罪深いままでいい。真っ黒なあなたでいい。そんなあなたを、わたしは受け入れる。それがイエス様の罪の赦しなのです。

 わたしたちには聖霊が与えられます。その聖霊はわたしたちを完全な者とするわけではありません。また聖霊の力によって、人の罪をあぶりだし、告発し、裁き合うのでもないのです。

 罪深いわたしたちがそのままの姿で認め合う。そのために聖霊はわたしたちの互いの壁を取り除き、お互いを受け入れることができるよう「罪の赦し」を促してくれるのです。

 先ほども言いましたように、今日は教会の誕生日です。わたしたちの教会が、本当に神さまのみ心に沿った教会となっているのか、そしてわたしたち一人ひとりが神の宮としてイエス様に倣い歩んでいるのか、共に考えてまいりましょう。