「東の国の博士たち」
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マタイによる福音書1章1~12節
今日読まれた聖書は、東方の占星術の学者たちが贈り物を携えて、イエス様が誕生した家畜小屋にはるばるやってきた、という物語です。クリスマス物語でも最後の方に登場する場面です。わたしたちが使っている聖書で占星術の学者となっている言葉は、新しい聖書では博士となりました。この言葉の方が、とても親しみがあると思います。その博士たちがイエス様の元にやってきたのを記念する日が1月6日、顕現日、エピファニーということです。
12月24日の夜、クリスマスイブの夜、何だか遠い昔のような気がしませんか。そしてクリスマスも終わり、次は大晦日、お正月と、お餅をついたり、紅白を見たり、おせちを食べたり、箱根駅伝を見たり、すっかりクリスマス気分も抜けてしまったことでしょう。しかし東の国の博士たちは、その間も、ラクダに乗ってカッポカッポと、星の導きだけを頼りに進んでいました。神さまはイエス様が生まれたという喜びの知らせを天使たちの光によって羊飼いたちに知らせ、そして東の国の博士たちを星の光で導いていくのです。
そしてこのそれぞれの光には、大きな意味があります。今日はその意味を、皆さんと一緒に分かち合うことができればと思います。
まず羊飼いたちに与えられた光、それはユダヤの中で貧しく、明日の希望が見えない、そのような人たちにまで、というよりもそのような人たちにこそ、神さまが目を向けられたということを示しています。当時の社会の中で底辺にいたと言ってもよい羊飼いたち。彼らは神さまに見捨てられていると感じ、毎日をただ生きるだけで精一杯でした。その羊飼いたちに神さまは、あなたたちのことを大切に思っているというメッセージを与えられたのです。
そして今日の場面、博士たち、占星術の学者たちに星の光によって救い主の誕生を示された場面では、「東の国」という言葉と、「占星術の学者」という言葉がポイントになっていきます。当時、ユダヤの人々は、救い主は自分たちだけのために、自分たちイスラエル民族だけを救うために来ると信じていました。
しかし東の国というのは、聖書でいうところの「異邦人」、つまり外国人が住むとことです。また占星術の学者というのは、簡単に言うと「星占い」をしていた人たちです。そして占いという職業は、旧約聖書を読むと禁止されていたものだとわかります。つまり彼ら東方の博士たちは、救いの対象ではないと思われていた外国の人たちであり、また聖書が禁じる仕事をしていた、そういう人たちだったのです。二重の意味で、神さまから遠く離れていたとされていたのです。そのような人たちに神さまの救いの喜びが知らされたということ、そこには大きな意味があります。それは神さまの愛はすべての人のものだということを、神さまがわたしたちに伝えられたということなのです。
今日、この説教のあとで、幼児洗礼式がおこなわれます。昨年の12月の洗礼堅信式に続いて、教会は今日も喜びにつつまれていきます。洗礼式は目には見えない神さまの恵みが、目に見える形でわたしたちに示される聖奠、サクラメントです。この洗礼式を通して、神さまがわたしたちを愛してくださっていることが示されるのです。
幼児洗礼という洗礼式をおこなう教派と、そうでない教派とがあります。「自分で信仰を告白すること」を洗礼の条件としている教派は、幼児洗礼をおこなわないことが多くあります。しかしわたしたち聖公会では、「司祭は信徒に幼子が生まれたときには聖堂に連れてきて洗礼を受けさせることを勧める」というように、祈祷書に書かれています。
祈祷書にはあわせて、教会問答の中で幼児洗礼の意味について、このように書かれています。教会問答の問19にまず、「洗礼を受けるのに必要なことは何ですか」という問いが出てきます。その答えとして、「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身を献げることです」と書かれているのですが、当然生まれて間もない赤ちゃんにそのようなことを求めることはできません。そこで問20がでてきます。「これらのことのできない幼子に、洗礼を授けるのはなぜですか」。その答えがこうです。「洗礼によって与えられる霊の恵みは幼子にも約束されているからです。教父母は幼子に代わって洗礼の誓約をし、幼子が教会のうちで育てられてキリストを知り、キリストに従うように努めます」。
「洗礼によって与えられる霊の恵みは幼子にも約束されている」、これがわたしたちの信仰なんですね。そしてこれを少し言い換えて、「洗礼によって与えられる霊の恵みは、すべての人に約束されている」と言ってもよいと思います。本来であればわたしたち一人ひとりも、霊の恵みが約束されたわけではなかったと思います。罪を本当の意味で悔い改めることもできず、悪の力を自分の力だけで退けることもできず、イエス様を信じながらもちょっとしたことで忘れてしまい、自分を献げるどころか自分のことだけを大事にしてしまう。2000年前のクリスマスの出来事は、そのような人たちにこそ、救いの光が与えられるという神さまの約束です。だからわたしたちにも光が与えられ、恵みに与ることができるのです。そのことを共に喜びましょう。
2000年前、博士たちは途中、道を間違えました。最初は星に導かれイエス様のお生まれになった馬小屋を目指していたのですが、ヘロデ王のところに行ってしまいました。多分途中で博士のうちの誰かが言ったのではないでしょうか。「救い主がお生まれになるとしたら、王様の宮殿に違いない」って。他の博士たちも「そうだ、そうだ」と言い合って、彼らは星の光が導く先ではないヘロデ王のところに行ってしまった。そのために救い主の誕生を恐れるヘロデ王は、悲しい事件を犯してしまうわけですが。博士たちは星に導かれながらも、途中で自分たちの思いを優先させてしまったのです。聖書はそのことも、わたしたちに伝えます。でも神さまは、そこで光を消すことはありませんでした。
「ちゃんとわたしの光に目を向けなさい」、そのようなメッセージが聞こえてきます。そしてその声は、わたしたちにも届けられているのです。いつも、どんなときでも、わたしたちのために光を与え続けておられる神さまの恵みを信じ、この一年もご一緒に歩んでいくことができればと思います。今から、喜びの洗礼式がおこなわれます。この喜びは、洗礼に与る幼子だけのものではありません。どうぞみなさんもこのサクラメントを通して、神さまの恵みを感じてください。みなさんお一人おひとりにもこの恵みが、シャワーのように浴びせ続けられていることを、どうぞ心に刻んでください。神さまの愛と恵みが、いつもわたしたちと共にありますように。