教会沿革
1885(明治18)年 伝道開始
1887(明治20)年 奈良基督教会創立 奈良英和学校設立
1909(明治42)年 登大路町に土地1600余坪を取得
1919(大正 8)年 桐苗700本植樹
1920(大正 9)年 奈良盲唖院設立(小林卯三郎校長)
1923(大正12)年 関東大震災 吉村大次郎司祭と張準相青年の出会い
1928(昭和 3)年 新会堂定礎式
1929(昭和 4)年 新会館(現園舎)完成
1930(昭和 5)年 現礼拝堂完成 聖別式 親愛幼稚園開園(園長・吉村大次郎司祭、保育経営・ミス・ヘスター女史) 「子どもたちの魂を豊かに育てる」
1982(昭和57)年 学校法人親愛学園親愛幼稚園発足
1987(昭和62)年 正面タペストリー、パイプオルガン設置(100周年記念)
1989(昭和64)年 新聖卓奉献(ドーマン宣教師記念の樟)
1990(平成 2)年 シオンホール完成
1997(平成 9)年 国の登録有形文化財(礼拝堂・園舎・渡り廊下)
2005(平成17)年 セーラハウス完成 マリア館改築完成
2014(平成26)年 園舎耐震工事完了
2015(平成27)年 奈良県指定有形文化財
国の重要文化財指定(礼拝堂<渡り廊下を含む>・園舎)
1. 奈良基督教会の始まり
玉置格による「奈良基督教会誌」冒頭 「起源」
「我教会員玉置格ハ曽テ自由主義ヲ採ルモノニシテ明治十八[1885]年初春ノ頃、不図自由ノ真理ヲ求メント欲シ、基督教ノ真理如何ヲ探ランタメ、同志中山貞楠ニ議リ、同年三月中旬朋友ナル大阪組合代言人北村佐吉氏ニ書ヲ寄セ、宣教師紹介ノ事ヲ依頼シ、同氏ヨリ平山某氏ニ謀リ、同月十八日平山氏ハ米国監督公会派出宣教師ジョン・マキム氏ニ其意ヲ通ジ、直ニ派出伝道ノ承諾ヲ受ケタリ」
北村佐吉、平山英夫、玉置格はいずれも自由党員。
1885.2.25 マキム宣教師は中島虎次郎、田中宇喜智両伝道師(いずれも聖慰主教会=現、川口基督教会)を奈良に派遣。
1885.4.28 マキム師ら奈良に来訪し、椿井町の上田伝七氏宅を説教所として伝道。
1885.9月中旬まで継続。聴衆120~130名となる。
1885.10.2 玉置、中山両氏と両家族、マキム師により受洗。奈良伝道の初穂。 マキムは川口居留地に居住。人力車で大和伝道に駆けめぐる。居眠って車から転落しないように紐で身体を車に結びつけていたという。古草履や小石を投げつけられることもたびたびあった。日本語は大変不完全であったが、その熱心に感じて聴衆は言葉以上の意味を了解したという。
1886(明治19) 説教会には500名が集まる。
1887(明治20) 花芝町3番地に教会堂着工。6.20 落成
1887.6.22(水) チャプマン司祭司式により献堂式、教会員30名
「来会者百十九人殆ど堂内に充満セリ。式終ツテ後来会者ニ菓子壱個ヅツヲ与ヘタリ」
落成前に玉置の長女テイ逝去。奈良で初めてキリスト教式葬儀を行ない、一般の誤解(流言)を解消。
ジョン・マキム主教の大和伝道回顧
「同町(奈良)にて最初に洗礼を受けしは土地一流の弁護士玉置、中山の両氏であった。……両人とも町の名望家にて同氏らに法律事務を依頼する者多かりしこととて、クリスチャンとなることは、世間より絶交せられ、また依頼者を失うことを意味した。受洗後両人はしばしば余と同行し大和全国を旅行し、あるいは家にて、あるいは寺堂境内にて、あるいは他の場所には信仰の証しをなした。」
「日本聖公会に於ける最初の自給教会は奈良基督教会であった[正式には1888年]。信徒は土地を提供して礼拝堂を建立した。外国の資金とてはただ余の持ち合わせし金七十円のみであった。」
1888(明治21) 初週祈祷会(組合派平城教会と合同)二日目(1.3) 「我ガ教会ニ於イテ祈祷スル際聖霊降臨シ、一同己レノ罪ヲ悟リ、一人トシテ泣涕セザルハナシ。」
2. アイザック・ドーマン宣教師の働きと夢
1888(明治21)3.14 着任
1888.4.26より1週間、連夜大説教会 宣教師のみならず信徒も伝道演説 連日500~600名。
演題の例 「奇蹟論」「人は宗教的の動物」「人の務め」「魂の説」「神と人との関係」 「基督教にかかわる夫婦間の徳義」「愛の説」「上帝の性質」
教会のほか奈良英和学校にも尽力。
アイザック・ドーマン著『神國に於ける一伝道師の生活』阿吽(あうん)社、2012 から
大阪から奈良に人力車で向かう。
「奈良まであと約1マイルの地点で友人たちが迎えに来てくれた。みなキリスト教徒らしい表情をしていて笑みが絶えなかった。日本では顔を見ただけでキリスト教徒であるかどうか簡単に区別がつく。特に女性の場合はそうだ。迎えに来てくれた信者たちのどの顔にも喜びが満ち溢れていて、心の中の愛情が発露していることが見て取れた。しかし我々には彼らの言葉が一言も分らなかった。」
「もし長く続く仕事をここ[古都奈良]でしようと思うのであれば、尊敬の気持ちを起こさせるような建物を建設するべきだと私は思う。(仏教寺院に匹敵するようなものは必要ない。)だが聖なる教えの尊厳を守るためには聖なる建物や礼拝所を今よりもずっと良い状態にする必要がある。」
「神聖な美しさの中で神を拝める適切な建築物を彼らが自力で建てるのを助けなければならない。そして健康で活気のある教会組織には今日絶対に必要である様々な施設を、惜しむことなく造らなければならない。そのような建物を建てるに当っては実用性と美しさを基本的な原則とするべきだ。」
「1893[明治26]年、『破裂太郎』と称する若者が現れた。」
目的は仏教を含めた外来の宗教を一気に追放し、神道を復興すること。ある日曜日の夜、礼拝中のある教会に入ってあらゆるものを破壊。次の日曜日には奈良基督教会に対して同じことをすると公言。キリスト教合同集会に侵入して妨害し、混乱させる。
破裂太郎、ドーマンを殺すと脅迫。しかし奈良の壮士グループが破裂太郎を追放。ドーマンは町の人々の信頼を得ていた。
1895(明治28)東京聖三一神学校の教授となり、奈良を去る。
・米田庄太郎(被差別部落出身)は奈良英和学校でドーマンに学び、卒業後はドーマンの秘書および通訳となる。米国留学の後、同志社専門学校、さらに京都大学教授となり、「日本の社会学の父」と呼ばれる。
・ドーマン宣教師の働きは8年に満たなかったが、その影響力は大きく、彼の願いひとつはは現在の礼拝堂において実現することになる。
3.吉村大次郎司祭と張準相(チャンジュンサン)青年の出会い
(2015/08/15 大阪・京都教区 平和礼拝(奈良基督教会にて)での井田司祭の説教「わたしの魂は主をあがめ」から)
今から92年前の1923(大正12)年9月1日に大きな地震と災害が起こりました。関東大震災です。10万人余りが死亡または行方不明になったと言われます。大震災の被害のものすごさに加えて、そのとき、もうひとつの大きな悲劇が起こりました。震災後の不安な空気の中で、根も葉もない噂が広まったのです。
どういうのかと言うと、朝鮮人が井戸に毒を撒いた。朝鮮人が村を襲っている……などといったでたらめな噂でした。ところがそれを信じ込んだ人たちが大勢いて、震災で逃げ惑い、あるいは避難生活をしている人たちを次々に検問し、取り調べ、朝鮮人とみると有無を言わさず殺してしまうという恐ろしい事態が発生しました。普段は善良な市民が、狂ったようになって朝鮮人を殴り、突き刺して殺すのです。犠牲になった人は4000人とも6000人とも言われます。
その渦中に張準相(チャンジュンサン)という当時22歳の朝鮮人留学生がいました。彼はこの奈良基督教会の信徒で、当時は同じ聖公会の立教大学予科に学ぶ学生でした。張準相青年は命からがら東京を脱出、この奈良基督教会に助けを求めました。
当時、奈良基督教会の牧師は吉村大次郎司祭でした。吉村先生はこの礼拝堂を建てるのに尽力された司祭です。この礼拝堂が建てられて聖別されたのは1930年ですから、それより7年前です。当時礼拝堂はこの石段の下にあったそうですが、将来この丘の上にしっかりした礼拝堂を建てよう計画し、情熱をもって祈っていた時期だと思います。
張準相青年は今にも日本人が自分を殺しに来るのではないかと恐怖を抑えることができません。その話を聞いた吉村司祭は、日本刀を持って来て、張準相青年にこう言ったそうです。 「あなたをもし、殺そうとしてだれかがやって来たら、この日本刀でわしを殺してからにせよと言ってやる。絶対にあなたを見放しはしない」
そのようにして張準相青年はこの奈良基督教会で守られ、ここで自分を決して見捨てないイエス・キリストの愛に触れました。このキリストの愛を苦難のうちにある同胞に伝えたいと決心し、牧師になるために、その年の12月、ここから送り出されて福岡神学校に入学したのでした。
ここに教籍簿の写しがあります。張準相先生は当時の日本統治下の朝鮮のメソジスト教会で大正8(1919)年に洗礼を受け、1923年、あの震災の年4月15日に大阪聖パウロ教会で堅信を受けておられます。
「同人は当教会(奈良基督教会)に於て按手準備をせし者なるが、受式を急ぐ理由ありて大阪聖パウロ教会に託せし者なり」
立教大学での新学期の学生生活に戻る前に堅信を受けたいと急がれたのだと推測します。
張準相青年は奈良の当時の礼拝堂で、心から願いを注ぎ出して祈ったに違いありません。張準相先生は福岡神学校を卒業して、やがて大阪に在日朝鮮人のための教会を創立されました。当時の状況から日本名を使うようになり、張本栄という名前で働かれました。これが現在、大阪の生野区にある聖ガブリエル教会の始まりです。
この張準相(張本栄)先生の人生の新しい出発は、教会で、吉村大次郎司祭との出会いから、そしてイエス・キリストとの出会いからで起こったのです。
わたしはこの話を、張先生のご長女の張聖子(チャンソンジャ)さんから直接聞いたのです。 張聖子さんは奈良女高師(現在の奈良女子大学)に学んでおられ、たびたびこの教会に通われていたそうです。張先生ご家族は貧しく、女学生時代にとても苦学されたとのお話も聞きました。
ところで張準相青年が震災と虐殺の恐怖から脱出し、奈良で吉村司祭を通してイエス・キリストと出会い、やがて福岡神学校に行かれることになる1923年秋から冬。そのころ、奈良基督教会の庭には桐の木が育ちつつありました。将来の礼拝堂を美しく飾るため、1919年に700本の桐の苗が植えられたのです。それは第一次世界大戦の終結を記念し、平和を願って行われた教会事業のひとつであったことが奈良基督教会百年記念誌に記されています。 その桐の木は、今、この礼拝堂の欄間として用いられています。何に見えるでしょうか。わたしたちの先輩、雲のような信仰の証人が並び集まって歌っている。苦しみ祈ってきた人たちが神のもとに喜び集まっている。そんなふうかもしれません。
外国人、少数者をふたたび恐怖に陥れるヘイトスピーチ。歴史の教訓に学ばずふたたび日本を戦争する国にしようとする動き。そのような時代の中で、今日8月15日、わたしたちはマリアとともに張準相先生を記憶しました。マリアの賛歌の中にわたしたちも加わって祈り歌いたいと願います。……
4.現礼拝堂建築のための祈りと労苦
1913(大正 2) 吉村大次郎司祭着任
1919(大正 8) 世界大戦終息に伴う平和記念事業 (1)奈良基督教会史編集 (2)誕生日献金実行 (3)桐の苗700本植樹
1920(大正 9) 私立奈良盲唖学校創設。教会員である小林卯三郎が校長となる。教会は会館を臨時校舎として提供。
1921(大正10) 米国聖公会内外伝道局創立100年記念式。その記念事業として全世界の五カ所に記念教会堂の建築が発議され、奈良基督教会がそのひとつに選ばれる。
1922(大正11) 教会堂新築準備始まる。
1923(大正12) 関東大震災 マキム主教米本国に打電「すべては失せたり。残るは主にある信仰のみ」
1925(大正14) ミス・カロリン・セレセウスキー女史来奈。礼拝堂建築前後6年間在任。重要な役割を果たす。奈良女高師で教える。後に母逝去記念として祭壇上の十字架等一式(七宝)を寄贈。
1927(昭和 2) 新礼拝堂、純日本風木造建築で認可確実となる。
1928(昭和 3) 6.18 セレセウスキー女史、大木技師、吉村大作氏(吉村司祭令息)の3人で吉野に檜の伐採を見に行く。樹齢150~200年の立派なものを56本選ぶ。。他からの檜材も合わせ560本。
1928(昭和 3) 7.1 定礎式
1929(昭和 4) 12.22 会館の工事完了、この日初めて礼拝に使用。
1930(昭和 5) 4. 2 親愛幼稚園開園
1930(昭和 5) 4.29 新会堂聖別式
1931(昭和 6) ドーマン夫妻永眠 セレセウスキー女史、ドーマン師を記念して樟を植樹。また同女史、コレル師を記念して樫を植樹
1935(昭和10) 吉村大次郎司祭、辞任 浜田清夫司祭、赴任
奈良基督教会の歴史を振り返りつつ、これからの教会への願いをこめて次の聖句を心にとめたい。
詩編122:1 「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。」喜びある教会
マタイ28:18-20 「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」宣教の使命に生きる教会
コリント一13:13 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 信仰・希望・愛の教会