2020年5月17日<復活節第6主日>説教

「イエス様につながって」

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ヨハネによる福音書15章1~8節

 みなさんは人と人とのつながりと聞いて、どのようなものを思い描くでしょうか。多くの人は、目に見える関係性を思い起こすかもしれません。しかしつながるということが、目に見えるもの、具体的なものによるものだけだとするならば、わたしはこの一ヵ月の出来事を振り返るときに、どうしようもないつらい思いにさいなまれてしまいます。

 礼拝を休止する。教会の扉を閉める。そのことは、ある意味において、わたしたちが神さまとつながろうとするその道を閉ざすことでもあります。4月17日金曜日、午後に教会は礼拝を休止するという判断にいたりました。信徒のみなさんと神さまとのつながりが、もしも阻害されてしまうのならば、その責任はすべてわたしにあります。そこから今日に至るまで、なんとかしなければ、その思いだけで歩んできたように思います。

 そして同じように思ってくださる方々が、たくさんおられました。教会委員をはじめ、多くの方がお互いに電話をかけあい、手紙を出しあい、メールしてくださいました。「どうしてんの?大丈夫?」、愚痴を言ったり、慰めあったり。いつもの主日礼拝では感じられなかったことを、わたしたちはこの経験を通して感じることができたのかもしれません。だとすれば、神さまはそのために、わたしたちにこの「時」を与えられたのでしょうか。

 「わたしにつながっていなさい」、この言葉はイエス様からわたしたちに語られた命令です。わたしたちはぶどうの枝として、何とかイエス様というぶどうの木につながっていないといけない。手を離してはいけない。そのように読むことができます。でもどうでしょうか。そのようなことを言われても、ちょっとしんどいなあ、と思う方もおられるでしょう。

 みなさんは子どものころ、迷子になったことはありますか。たまにお母さんとはぐれて泣いている子どもを見かけることがあります。どうして手を離してしまうのだろう、大人はそう思います。でも子どもが手を離す理由はいろいろとあります。ショーウインドウの美味しそうなケーキにつられて。早くおもちゃ売り場に行きたくて。お母さんに対して腹の立つことがあって。

 いろんな状況で手を離し、駆け出してしまう子どもは、はっと我に返ってあたりを見渡します。そして近くにお母さんがいないのを知った時に、涙があふれ、大声で泣き叫んでしまうのです。

 わたしたちはもしかしたら、イエス様に対しても、同じようなことを何度もしているのかもしれません。イエス様の手を離してしまって、どうしようもなく心細くなった。そもそもイエス様は自分のそばにいてくれているのだろうか。本当にそばに寄り添ってくださっているのだろうか。

 この一ヵ月、教会に来ることができず、どう祈っていいのかわからなくなったときに、もしかしたら自分はイエス様から離れてしまったのではないか、そう思われた方もおられることでしょう。しかし安心してください。今日の聖書の言葉は、そんな思いを抱く方にこそ伝えたいものです。

 イエス様は今日の言葉を、十字架に向かわれるその直前に弟子たちに伝えられました。イエス様はこのときすでに、ご自分が十字架につけられ、殺されることを知っていました。その中で、それでもイエス様は弟子たちに語られるのです。「わたしにつながっていなさい」、そしてそのあとにさらに続けられます、「わたしもあなたがたにつながっている」と。

 この言葉を、特に後半のところを、わたしたちは福音として、良き知らせとして、いつも心に留めていきたいと思うのです。イエス様は何もわたしたちにただこうしろ、ああしろと命令されているだけではないのです。「わたしもあなたがたにつながっている」、そう約束されているのです。

 たとえわたしたちが手を離そうとも、礼拝に出ることができなくても、そしてたとえ教会から離れてしまったとしても、イエス様はその手を絶対に離すことはないのです。今この時間、様々な場所で祈られている祈りも聞かれるし、祈ることすらできない心の葛藤も、イエス様は包み込んでくださいます。

 5月14日の木曜日、政府は新型コロナウイルス感染拡大を防ぐために発令した緊急事態宣言の解除を、奈良を含む39の県に対しておこないました。ただし近隣の大阪・京都・兵庫の状況や、決して感染リスクがゼロになったのではないということを鑑みて、教会では5月31日から礼拝を再開する予定でいます。

 ただし、決して無理はしないでください。公共交通機関を使っての移動やお体のことで不安なことなどあれば、ご自宅でどうぞお祈りをしてください。今まで通りインターネットを使った配信も、郵送物による対応もしてまいります。そして何よりも、何があってもイエス様があなたの手をギュッと握っていてくださいます。だから安心していいのです。

 そして、わたしたちがイエス様とのつながりを感じることができたときに、思い起こしてほしいもう一つのことがあります。

 それはこのコロナ騒動の間に、多くの差別が生まれたという紛れもない事実です。コロナに掛かった人を特定し、その人に関わった人をあぶりだしていく。医療従事者や長距離トラックの運転手やその子どもを差別し、受け入れない。特定の業種や地域に関わる人を排除し、自分たちの周りだけを清く保とうとする。

 あるコラムにこう書いてありました。これはまるで、ハンセン病患者を差別し、隔離していった時のようだと。ムラから患者が出たら大変だと怯え、怪しい人がいればすぐに通報する。誰が悪いわけでもないのに、家族までもが苦しみの中に叩き落されてしまう。

 わたしたちは、イエス様とつながっています。そしてイエス様は、苦しんでいる人、差別されている人、今日生きるのに精一杯な人、話し相手がいない人、そのような人のところに行かれ、肩を抱き、ご飯を食べ、共に歩まれたということを、もう一度思い起こしたいと思うのです。

 わたしたちのつながりは、イエス様を真ん中にしているからこそ、しっかりと結ばれているのです。わたしたちがたとえ手を離したとしても、迷子になることはありません。それはイエス様が決して手を離されないからです。

 そのイエス様の向こう側には、救いを求めているたくさんの人たちがいます。コロナの影響で、傷つき、弱くされた人たちがいます。わたしたちはその人たちとも、一緒に歩んでいきたい。今こそ教会が、これだけのつながりを感じることが出来た教会が次の一歩を踏み出す、その時なのではないでしょうか。