2025年7月27日<聖霊降臨後第7主日>説教

「祈りは聞かれます」

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 ルカによる福音書11章1~13節

 みなさんにとって「祈り」とはどのようなものでしょうか。プロテスタントの教会では、平日の夜に「祈祷会」を行う教会が多くあります。また教派を超えて、早朝に祈る「朝祷会」も各地で開催されています。私の夫も奈良地区の朝祷会に参加していますが、全国的に定期的に行われています。

 では、聖公会ではどうでしょうか。私たちには「祈祷書」という、整えられた礼拝の本があります。日曜日の礼拝も平日の礼拝も、基本的にこの祈祷書に従って行われるため、「自分の言葉で祈り合う」という経験は、少ないかもしれません。もちろん、食前の祈りや会合の前後に祈ることはありますが、お互いの祈りの課題を持ち寄って共に祈る機会は、あまり多くはないのではないでしょうか。私は個人的に、そういった祈りの時間がもっと増えてもいいと感じています。祈祷書の祈りはとても美しく、信仰の模範ですが、だからこそ、「自分の言葉では上手く祈れない」「拙い祈りでは恥ずかしい」と感じてしまう方も少なくありません。それは少し残念なことです。

 けれど、きっと皆さん一人ひとりは、それぞれの場所で祈っておられると思います。毎日決まった時間に祈る方、散歩中や運転中、湯船につかりながら祈る方もおられるでしょう。あるいは本当に苦しい時、「神さま、助けてください」と、すがるような思いで祈る方もいらっしゃるかもしれません。それで良いのです。どんな形であっても、どんな頻度であっても、神さまは私たちの祈りを聞いてくださいます。私はそのことを確信しています。

 祈りがどのように聞かれたか、また祈る中で神さまをどう感じたかを分かち合うことを、教会では「証し」と呼びますが、これもまた、聖公会ではあまりなじみがないかもしれません。もっと祈りについて、また聖霊がどのように働かれるかについて、語り合い、共に味わう時間があればと願っています。私たちはよく「教会に信徒が増えない」と嘆いています。しかし今、イギリスでは「Quiet Revival(静かなリバイバル)」が起こっているといいます。若い人たちが、静かに教会に戻ってきているのだそうです。「静かに」というのがポイントです。私たちは若者が教会に来ないのは、礼拝がつまらないから、現代に合っていないからだと考えがちですが、実はそうではないのかもしれません。静かに祈る空間に惹かれ、祈り合う仲間や、霊性に目を向ける若い人たちが増えてきたのです。奈良基督教会もリバイバルとまでは言えないかもしれませんが、この数年、一人、また一人と若い方々がこの長い階段を上って礼拝に来てくださるようになっています。希望があります。だからこそ、すでにこの場に集う私たちが、祈りの大切さ、信仰を共にする喜びをいっそう味わいたいのです。私たち一人ひとりの心が霊的に燃やされ、キリストの香りを放つ者となるならば、今まさに神さまを求めている人々への道しるべとなると信じています。祈りは、単なる個人的な「お願い」ではありません。それは福音を伝える力強い宣教の道具でもあるのです。

 さて、今日の福音書は「主の祈り」から始まります。マタイによる福音書6章にも似た形で記されていますが、共通しているのは、イエス様がこの祈りを弟子たちに直接教えられたことです。「主の祈り」は、まさに祈りの模範であり、2000年にわたって教会の中で大切に受け継がれてきました。この主の祈りの解説はまたの機会にして、今日注目したいのは、その後に語られるルカ独自のたとえ話です。

 ある日、あなたの家に、夜中に突然、旅の途中の友人が訪ねてきます。彼はお腹をすかせていますが、突然のことで食べさせるものが何もありません。店も閉まっています。そこであなたは、いつも助けてくれる隣の鈴木さんの家へ向かいます。「鈴木さん、すみません! パンを3つほど分けていただけませんか? 友人が来たのですが、何も出せるものがなくて……。」鈴木さんは眠い目をこすりながら、インターホン越しに言います。「今は無理よ。子どもたちも寝てるし、もう遅いわ。」それでもあなたは諦めず、しつこくお願いし続けます。「どうしても、友人に食べさせたいのです。お願いします、鈴木さん!」何度も頼まれて、とうとう鈴木さんは「もう、仕方ないわね」とパンを持ってきてくれるのです。

 イエス様はこう言われます。「彼が起きてきたのは友だちだからではなく、あまりにもしつこく頼んだからだ」と。そして、こう続けます。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。」

 イエス様はこう言われますが、私は「友だちだから」という理由も大きいはずと思います。そこに愛があるから鈴木さんは夜中にしつこく戸を叩くあなたを助けたのでないでしょうか。神さまとの関係もそうなのです。たとえ私たちがどんなに不完全であっても、神さまは私たちを愛しておられます。「子どもが魚を欲しがるとき、蛇を与える親がいるだろうか。卵を求めるとき、さそりを差し出す親がいるだろうか。私たちが子どもに良い物を与えるように、天の父なる神は、求める者に最も良いもの——聖霊を与えてくださる。」もちろん、時に願いがそのままの形で叶わないこともあります。でもそれは、神さまが私たちにより良いものを与えようとしておられるからです。時がたって初めて分かることもあるでしょう。

 本日の特祷にも、こんな言葉がありました。「永遠にいます全能の神よ、あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます。」また、祈祷書176ページ、陪餐の直前の祈りにはこうあります。「わたしたちのうちに働く力によって、私たちが求めまた思うところの一切を、はるかに超えてかなえてくださることが出来る方に……栄光が世々に限りなくありますように。」

 神さまは、私たちが願うよりも多くを与えてくださる方。思いを超えてかなえてくださる方。祈りは、その愛と恵みに触れるための扉です。「祈りは聞かれる」、この確信を胸に、これからも祈り続けていきましょう。