「いつやるか?今でしょ」
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ルカによる福音書4章14~21節
ちょっと前に「今でしょ!」という言葉が流行りました。某カリスマ予備校講師が、勉強を「じゃいつやるか?今でしょ!」と画面の前のわたしたちに向かって言うCMは記憶に新しいと思います。受験に関係ない大人のわたしさえもそれを聞くと、なんだか気持ちを掻き立てられて、「そうだ、明日じゃなくて今やろう」という気になりますから不思議なものです。よく考えれば、わたしたち人間はなかなかこの「今」という時間を大切にしません。いつまでも過去のことにこだわり、まだ見ぬ未来のことを心配します。しかし、本当に大切なのは今現在であり、この生かされている瞬間なのです。受験生が今するのは勉強、だったら、わたしたちクリスチャンが今なすべきことは何なのでしょうか。
本日の聖書箇所は、ルカによる福音書の比較的最初の部分になります。ルカによる福音書は、イエスの誕生物語に始まり、大人になってヨルダン川で洗礼を受けられた後、荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ち、そして、ガリラヤで宣教活動を始めるという順番で書かれていますが、その宣教活動の冒頭にナザレの会堂で教えられたという記事が載せられています。ナザレは、イエスがお育ちになった場所です。ある安息日、礼拝のため、ユダヤ教の会堂に入られました。「いつもの通り」とありますから、おそらく、敬虔なユダヤ教徒として生活されていたのでしょう。礼拝の最初に、イエスは、聖書を朗読するために立ち上がります。礼拝の奉仕者が彼にイザヤ書の巻物を手渡しました。イエスが巻物をお開きになると、ある個所が彼の目に留まりました。それは、イザヤ書61章のことばでした。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
そこまで読むと、イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られました。すると、会堂にいるすべての人が振り向きイエスに注目しました。イエスは口を開き、言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」それは、この聖書に書かれたイザヤの預言が、人々が聞くことによって、今成就され、現実のものとなったということだったのです。貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人、これらの人々が苦しみから解放され、主の恵みがその人たちに満ち溢れる時が来た。ヨルダン川での洗礼によって主の霊が注がれたイエスによって、その時が今まさにもたらされた。そのことを宣言されたのです。
貧しい人に福音が告げ知らされ、捕らわれている人が解放され、目の見えない人の視力が回復し、圧迫されている人が自由になる。最後の「圧迫されている人」というのは、新しい聖書では、「打ちひしがれている人」と訳されています。これらを聞いて、具体的にある人を思い浮かべる方もあれば、ミャンマーのような軍事政権下で苦しんでいる人たちや、コロナ禍で仕事と住む場所を失った人たち、自分自身の自由を犠牲にしながら一生懸命医療に従事しておられる人たちを思う方もあるでしょう。でも、それは、今恵まれていると感じるこの「私」から見てかわいそうな人たちという括りを指してイエスは話したわけではありませんでした。ナザレの会堂で、その言葉を耳にしたすべての人が当時、貧しい人であり、捕らわれている人であり、目の見えない人であり、打ちひしがれている人だったのです。そして、それは今ここにいるわたしたち一人一人のことでもあるでしょう。お金が有り余るほどあっても、わたしたちは常に愛に飢えています。自分の人生を好きに生きることができる自由人であっても、わたしたちは人を傷つけ、神を忘れる罪に常に捕らわれています。視力がたとえ両目1.5あったとしても、わたしたちには本当に大切なものが見えているのでしょうか。見えていません。わたしたちの目にはそれは、それは分厚い、うろこのようなものが覆いかぶさっているのでないでしょうか。そして、圧迫されている人、あるいは打ちひしがれている人、それがわたしたち一人一人であることは自分が一番よくわかっています。どうしてわたしはこうなんだろう、どうしてわたしばかりこんなつらい目にあうのだろう。誰しもが日々感じることです。
イエスは、そんなわたしたち一人一人に対して語られたのです。「もう大丈夫。この世のすべての苦しみ、悲しみから人々を解放するために、わたしは神から遣わされた。今、この言葉を受け入れたあなたがたによって、この解放は現実のものとなった。」これは、福音でした。ある意味、もう一つのクリスマス物語です。当時、この上なく貧しく、差別され、社会の枠の中に入れてもらえずにいた羊飼いに告げられた大きな喜びの知らせが今、イエスの口からわたしたち一人一人に告げられているのです。
思い出してください。クリスマスの夜、天使たちから、救い主がお生まれになったという喜びの知らせを受け取った羊飼いたちはその後どうしたでしょうか。彼らは、いてもたってもおられなくなり、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と立ち上がりました。そして、ベツレヘムの小さな家畜小屋でイエスに出会い、その喜びを町中の人々に話したのです。
今こそ、わたしたちがそれをするべき時なのではないでしょうか。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」わたしたちがその知らせを聞き、受け入れる時にイエスの言葉、聖書に記された神さまの約束の言葉は実現するのです。聞く、そして受け入れるというのは、決して受け身でいることではなく、能動的な働きです。その言葉を耳にしたとき、聖霊の働きによってわたしたちは突き動かされ、動かずにはいられなくなるといった方が正しいかもしれません。
聖霊によって背中を押し出されるわたしたちはさて、何をしましょうか。今日の使徒書、コリントの信徒への手紙I、12章にヒントがある気がします。わたしたちはみんな神さまから与えられた賜物が違います。役割も違います。能力も、性格もすべて違う。でもみんな違うからいいんだとパウロは言います。なぜなら、その違うわたしたちが合わさってキリストの体になるからです。キリストは、その体の頭であって、貧しい人に福音が告げ知らせ、捕らわれている人を解放し、目の見えない人を見えるようにし、打ちひしがれている人を自由にするという神さまの思いを伝えるためにこの世に遣わされました。その神さまの思いを実現するのが、イエス様の言葉を耳にしたわたしたち一人ひとりの責任なのです。しなければならないという思いではなく、喜びに満ち溢れて、自分に与えられた賜物を使ってできることをするために外へ出ていきましょう。聖書の言葉、神さまの約束は、わたしたちが耳にしたとき実現するのです。それはいつですか? 今です。