2021年5月30日<三位一体主日・聖霊降臨後第1主日>説教

「神さまに与えられるいのち」

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ヨハネによる福音書3章1~16節

 今日は三位一体主日です。三位一体という言葉の意味を辞書で調べてみると、このようにありました。キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。

 なかなかピンとこない表現です。しかしこの三位一体の神を信じるという信仰は、とても大切なものです。わたしたちは毎週の礼拝の中で、ニケヤ信経を唱えますし、教会の信仰を言い表すものとしてニケヤ信経と使徒信経を大切にしています。教会問答の中に「使徒信経の主意は何ですか」という問いがあります。

 その答えは、1、万物を造られた父なる神、2、万民を贖われた子なる神、3、命の与え主、世に働き神の民を清められる聖霊なる神、この父と子と聖霊なる聖なる三位一体の神を信じることです。とありました。

 つまりわたしたちの信仰は、三位一体の神さまがわたしたちに関わっていることを信じる。創造主として、贖い主として、そして命の与え主としてわたしたちにいろんな形で関わってくださる神さまを受け入れるということです。

 その、とても大切な主日、三位一体主日に読まれる福音書の中に、この言葉があります。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ヨハネによる福音書3章16節のこの言葉は、今年の教会の聖句として覚えているものです。この一節は、聖書全体を要約するとこの言葉になるという意味で、小福音書、ミニバイブルと呼ばれることもあります。聖書がわたしたちに告げたかったこと、わたしたちに伝えたかった神さまの思い、それは「神は世を愛された」ということです。この世にいる人が、一人として滅びるのを良しとされない、そのことが神さまの思いなのです。

 そのために、神さまはありとあらゆる方法でわたしたちに関わっておられるのです。イエス様の十字架によりわたしたちの罪は赦され、わたしたちと神さまとの間の深い溝は埋められました。イエス様の復活により、わたしたちは孤独の中から救い上げられました。そして聖霊を与えられ、わたしたちは生きるものとされたわけです。この神さまの、わたしたちを決して見捨てないという強い思いがあって、三位一体の神として関わることをなさっているのではないでしょうか。

 さて、今日の使徒書と福音書の中で、共通して書かれていることがあります。それは「霊によって生きる」ということです。使徒書のローマ8章13節には、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」とあります。これはどういうことでしょう。

 聖書に書かれる肉と霊というのは、わたしたちがイメージしがちな「体」と「心」という意味ではありません。ローマの信徒への手紙を書いたパウロの考え方の根底には、二元論というものがあります。二つのものを対比する考え方ですが、ここでは「肉」と「霊」という二つについて言っています。

 パウロは霊と肉を、「肉」イコール悪、「霊」イコール善とします。では「肉」とは何なのか、それは人間の思いです。自己中心的な考え、自分勝手な心、それらを「肉」と呼びます。それに対して「霊」とは、神さまの思いです。神さまのみ心、神さまのご計画、それらが「霊」です。つまり肉に従わずに霊によって生きるとは、自分の思いを捨て、神さまのみ心を求めて生きるということです。

 神さまのみ心といっても、とても難しいです。自分がこのようになって欲しいという望みと神さまの思いが違っていたら、なかなかそれを受け入れることができない、それが人間です。

 祈祷書の中に、「病人のため」というお祈りがあります。二種類のお祈りが載せられていますが、その一つには「み心ならばその病をいやし」という言葉があります。「み心ならば」、この言葉で祈られたときに、その人はどう思うでしょうか。神さまのみ心が、病気がいやされることであればそれでいい。でも病気がいやされることがみ心でなかったとすれば。「どうかこの方をいやしてください」というのと、「み心ならばこの方をいやしてください」というのは確かに違います。

 「み心ならば」、しかしこの言葉こそが、わたしたちのとても大事な信仰なのです。神さまはわたしたちの願いを聞いてくれるかもしれないし、聞いてくれないかもしれない。聞いてくれたとしても、それが今日なのか、明日なのか、10年後か、もっと先かわからない。聞いてくれたとしても、わたしたちが思っていた形と違う道が用意されているかもしれない。

 でも、その根底には、神さまがあらゆる形でわたしたちに関わろうとされている。いろんな姿でわたしたちに手を差し伸べ、命へ導こうとされている。神さまは決してわたしたちを一人にはされない。その信頼があるから、わたしたちはすべてを委ねることができるのです。

 今日の福音書の中でイエス様と対話したニコデモは、新たに生まれることの意味、そして霊から生まれることの意味が分からなかったようです。しかしそのニコデモは、ヨハネによる福音書にもう一度登場します。それはイエス様が十字架で死なれ、墓に葬られる場面です。ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に、イエス様の遺体を受け取りました。そして新しい墓に納めたという記述があります。このときニコデモは、どうしてイエス様のそばにいたのでしょうか。イエス様に言われた言葉、「霊から生まれる」ことの意味を知りたくて、ずっとイエス様のあとを追いかけていたのでしょうか。それはわかりません。

 しかしわたしは思います。ニコデモがイエス様の遺体に触れたとき、イエス様のこの言葉、神さまのこの思いがよみがえったのではないかと。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 その神さまの思い、み心に触れたときに、ニコデモは霊によって新たにされ、霊によって生かされたのではないかと思います。 それはわたしたちも同じです。神さまはわたしたち一人一人のために愛するイエス様を十字架に向かわせられ、わたしたちに命を与えて下さった。わたしたちが滅びることなく生きるため、聖霊を与えて下さった。だからわたしたちもまた、霊によって生きることができるのです。