「恐れるな」
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マタイによる福音書10章24~33節
「恐れるな」、今日の福音書には三度、この言葉が出てきます。「人々を恐れてはならない」、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、そして「だから恐れるな」といういずれもイエス様の言葉として登場します。
しかし自分自身が恐れているか、それともいないかというと、わたしは普段から恐れながら生きているように思います。また、この「恐れ」という感情は、わたしたち人間にとって、とても大切な感情だと思います。
たとえば車の運転を例にとってみたいと思います。かなり長い期間、無事故無違反を続けています。運転する機会が極端に少ないかというと、そうではありません。ただ単に怖がりなのです。
まずどんな運転のときも、怖いから車間距離をしっかりとります。細い道を通るときは何か飛び出して来たら怖いから、すぐに止まれる速度で走ります。高速道路でも、あおられたら怖いから、左側の走行車線をひたすら走ります。
でも今日のイエス様の言葉、「恐れるな」を文字通り車の運転に当てはめてしまうと、なんだかおかしなことになってしまいます。イエス様はわたしたちに、暴走行為を勧めているわけではないのですね。そんな風に捉えてしまったら、社会全体が変なことになってしまいます。
つまり、イエス様のこの「恐れるな」という命令は、ただ無謀に、怖いもの知らずになって、後先考えずに行動しなさいということではないということです。
昨今のコロナウイルスに関連し、礼拝を休止する、しないという中で、もし「恐れるな」という言葉だけが独り歩きしてしまったらどうでしょう。ウイルスになんかかかりっこない。かかったって大したことはない。だって「恐れるな」と言われたし。
イエス様はどうしてそのような言葉を語られたのか。まずその背景を知る必要があるように思います。イエス様の周りには、弟子たちがいました。彼らはいつも一緒に行動していました。一緒にご飯を食べ、寝泊まりし、福音を宣べ伝えながら町や村を巡り歩いていました。
しかしイエス様にはわかっていました。ご自分はいずれ弟子たちの元を離れていくこと、そして弟子たちだけで行動しなければならない日がくるということを。だからイエス様は弟子たちに様々なことを教えていきます。厳しいことも当然伝えていかれました。
またこの言葉は、2000年前にイエス様のそばにいた弟子たちだけに語られたものではありませんでした。それ以降にイエス様の言葉に触れ、支えられた人たちがいました。
この福音書を通して、イエス様の言葉を通して、多くの人たちが力づけられていきました。キリスト教が認められていくまでの長い時間、殉教した人もたくさん出たわけですが、その人たちの心にも「恐れるな」というイエス様の言葉は深く届いていったことでしょう。
それでは今を生きるわたしたちにとって、この「恐れるな」という言葉はどういう意味を持つのでしょうか。無茶をしなさいという意味ではない。殉教する恐れも今のところなさそうだ。じゃあこの言葉はわたしたちに何を語りかけるのでしょうか。
この言葉の意味をきちんととらえるためには、福音書でイエス様が語られたこと、また約束されたこと全体から考えていく必要があるように思います。それはどういうことか。それはイエス様は、決してわたしたちをほったらかしにはしないということです。
先々週わたしたちは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の言葉を聞きました。「恐れるな」、この言葉だけを聞くと、何だか突き放されたような思いも持つかもしれません。しかし同時に、「わたしが共にいる」とイエス様は言ってくださっているのです。だから大丈夫なんだ、恐れるな、そういうことなのです。
わたしたちは神さまから見たら、小さな、小さな子どもたちです。神さまが思うようなことができているのか、神さまの前に正しく生きているのか。小さな子どもがわがままを言うように、イヤイヤ期を過ごすように、いたずらばかりしてお母さんを困らせるように、わたしたちも神さまから見たら、そんな一人ひとりなのです。
幼稚園にかかわらせていただいている中で、お母さんと子どもたちの様子を見るときにとてもホッとします。6月から分散登園で幼稚園が再開されましたが、3月から5月までずっとおうちにいた子どもたちがどんな反応をするのか、内心とても心配でした。
案の定、お母さんから離れられない子どもたちがいました。逆に長い階段を振り返りもせずに、サーっと登っていく子どもの姿もありました。幼稚園のほんの短い時間をお母さんと離れて過ごす、小さな心の中に、とても大きな不安が渦巻いていることでしょう。
でも子どもたちは知っています。たとえ少しの間、離れていたとしいても、大好きなお母さんは必ず迎えに来てくれるということを。「大丈夫だった?怖くなかった?」、そう言いながら、必ず抱きしめてくれるということを。そして何よりも、お母さんはいつどんなときだって、自分のことを思い続けていてくれるということを。
イエス様は「恐れるな」と言って、弟子たちを遣わしました。それでも弟子たちの心から、恐れが完全に消えることはなかったでしょう。しかし彼らの心には、イエス様の約束が響いていました。「わたしはあなたがたと共にいる」という約束が。
その約束があるから彼らは、勇気を振り絞って、歩き出したのです。福音を伝えようとしたのです。イエス様が暗闇で言われていたことを、明るみで言い、イエス様が耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めたのです。
恐れるな、その言葉を命令だと捉えたならば、戒めだと考えるとすれば、とても厳しい言葉に感じることでしょう。しかしイエス様は、わたしたちを励ますために語られているのです。「怖がらなくてもいい、大丈夫だから」。その言葉をわたしたちもまた支えとして、歩んで行きたいと思います。