2023年7月16日<聖霊降臨後第7主日(特定10)>説教

「種をばらまく」

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 マタイによる福音書13章1~9、18~23節

 今日は教会にとって、大きな喜びの日です。教会の門を叩いた一人の方の洗礼堅信式が、主日礼拝の中でおこなわれます。堅信式には主教さんが来られ、説教もしてくださいます。ですからこの文書は説教ではなく、YouTube配信用、そしてコラムとしてお読みいただけたらと思います。

 今日の福音書には、「種を蒔く人のたとえ」と呼ばれるたとえ話が書かれています。ある人が種蒔きに出かけます。するとある種は道端に落ち、鳥が来て食べられます。またある種は石だらけで土の少ない所に落ち、すぐに芽を出したものの日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいます。またある種は茨の間に落ち、茨が伸びたためふさがれてしまいます。ところがある種は良い土地に落ち、実を結んで、百倍、六十倍、三十倍にもなったということです。

 この話を聞くときに、わたしたちは思うわけです。「わたしは一体、どの土地だろうか」と。「わたしの心はきっと頑なだから、道端ね」、「わたしはすぐに信じるけど心が冷めるのも早いから石だらけの土地かな」、「わたしの心にはいつも思い煩いがあるから茨の間に違いない」、そのように自分がどの土地なのかを考えてしまう。そしてこう思うのです。「実をたくさん結ぶ、良い土地になろう」と。幼稚園や日曜学校でも、このような「道徳的」な捉え方をすることが多いのではないでしょうか。

 それは福音書の後半部分に、そのような記述があるから仕方ないのですが、実はこの後半部分、あとから付け加えられたのではないかと言われています。前半部分のイエス様のたとえ話だけでは、なかなか意味が分からない。昔は口伝、つまり口づてで様々な物語やイエス様の言葉が伝えられていました。その過程で、たとえ話に解釈も加えられていった。そして年月が経つうちに、いつの間にか解釈も、イエス様の言葉と重ねられていったというわけです。

 2000年前の話ですので、どこまでが本当なのかはわかりません。しかしもしイエス様の言葉が前半のたとえ話の部分だけだったとしたら、イエス様はわたしたちに何を伝えたかったのだろう、ここではそのことをご一緒に考えてみたいと思います。

 ここで、福音書の物語に戻ってみたいと思います。ある人が種蒔きをしますが、その種はいろんなところに落ちてしまいます。

 この時点で、わたしたちは「おや?」と首をひねるのではないでしょうか。植物を育てたことのある方なら分かると思いますが、普通種を蒔くときにはあらかじめ土に穴を開けておき、そこに種を入れるということをします。そうしないと、種が無駄になってしまうからです。

 しかしこのたとえ話に出てくる種を蒔く人は、違います。多分袋にある種を手でわし掴みにして、バサーっと投げる。また袋に手を入れ、バサーっと投げる。それを繰り返していくのです。

 だから道端や、石地や、茨の中など、種が落ちても育たないような場所にも蒔いてしまうのです。わたしたちの感覚では、それは“無駄”です。“無意味”です。そんなことをして何になるの?と思える行動です。しかしイエス様は、そのような人をたとえ話の主人公に据えました。そしてこのたとえ話のタイトルは、「種を蒔く人のたとえ」となっています。

 さて、冒頭でもお話ししたように、本日教会では洗礼堅信式がおこなわれます。なぜそれが教会にとって喜びの日なのかというと、すでに洗礼や堅信を受けた方、まだ洗礼を受けておられない方、みなさんに様々な気づきが与えられるからです。

 すでに受けておられる方は、きっとご自分の洗礼、堅信のときを思い起こされると思います。幼児洗礼だったという方もおられるでしょう。そのときご家族は、どんな思いであなたを洗礼盤のところに導いてくれたでしょう。

 大人になってから、イエス様を受け入れる決心をされたという方もおられると思います。そのきっかけは、みなさんそれぞれ違うでしょう。でもそこに神さまの導きがあったから、今、生かされているのだと思います。

 そしてまだ洗礼を受けておられない方、神さまの呼びかけにいつの日か応えることができたらとてもうれしいです。その日がいつなのか、それは誰にもわかりません。神さまの大きなご計画の中で、きっとその日が来ることを祈り続けたいと思います。

 わたしが洗礼堅信式の準備のときにいつも思わされるのは、わたしたちは決して自分の力で神さまの前に立っているのではないということです。神さまがわたしたちを一方的に招かれた。その招きに応え、わたしたちは導かれたということです。ではそれは、神さまが招いてくださったタイミングに偶然合致したということなのでしょうか。

 ホルマン・ハントという人が描いた「世の光」という宗教画をご存じでしょうか。ヨハネの黙示録3章20節の「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」という箇所を題材として描かれた絵です。

 ドアの外に立っている人がいます。イエス様です。彼はランタンを持ち、ドアを叩き続けています。家の中からは明かりがこぼれています。しかしイエス様は、中に入りたくても入れません。なぜならドアの外側にはノブがなく、ドアは内側からしか開けることができないからです。それでもイエス様は、ずっとドアを叩き続けるのです。

 「種を蒔く人のたとえ」、その種を蒔く人とは誰でしょうか。種とは何でしょうか。もし種を蒔く人が神さまで、種が神さまの愛だとしたら、どうでしょうか。もしも神さまがその愛が無駄になるのを惜しんで、良い土地にしか愛を注がれない方だったらどうでしょうか。

 そうだとしたら、わたしたちの心に神さまの愛は届かなかったと思います。なぜならわたしたちの心は頑なで、移ろいやすく、欲望で覆われているからです。でも神さまは、そんなわたしたちに届くように、惜しげもなく愛をばらまいてくださるのです。

 そしてそのばらまきは、一度限りのことではありません。わたしたちがその愛に気づくように、神さまの恵みを受け入れるように、何度も、何度でも、ばらまき続けられる。それは洗礼を受けてもストップすることはありません。堅信を受けたからといって、終わることはありません。ずっと、ずっと、これでもかと言わんばかりにばらまき続けられる、それが神さまなのだということを、イエス様はこのたとえを通して示されたのです。

 わたしたちの心は、神さまの目から見たら決して「良い土地」ではないかもしれません。しかしそれでも種を蒔き続け、ドアを叩き続け、愛を注ぎ続けてくださる方がおられるということ、心から感謝したいと思います。