2021年1月31日<顕現後第4主日>説教

「イエスの教え」

YouTube動画はこちらから

マルコによる福音書1章21~28節

 今日、わたしたちに語られた福音は、マルコによる福音書1章21節から28節、安息日の出来事です。安息日というのは旧約聖書の中で定められた日で、簡単に言うと「神さまにおささげする日」です。当時のユダヤでは、安息日になると会堂に集まっていたようです。そこで人々は祈り、律法や預言者の言葉を聞き、ユダヤ教の教師であるラビが教えることに耳を傾けました。

 その安息日に、二つのことがおこったと、聖書は伝えます。1つはイエス様が教えているときに、「人々がその教えに非常に驚いた」ということ。そしてもう一つは、イエス様が「(けが)れた霊を追い出した」ということです。その二つの出来事に対し、それぞれこんな反応がありました。イエス様の教えに対しては、人々は「権威ある者として教えられた」と感じました。汚れた霊を追い出した場面を見たときには、「権威ある新しい教えだ」と論じ合いました。つまり今日、ここでわたしたちに伝えられているのは、イエス様が「権威ある新しい教え」であったということです。権威ある新しい教えとして、イエス様が来られたのです。その「イエス様の権威」とは何か、そのことを今日はみなさんと分かち合っていきたいと思います。

 しかし「権威」という言葉を聞いたときに、少し嫌な感じを持つ方もおられるかもしれません。「権威」という言葉は否定的な意味で使われることが多いからです。権威主義という言葉は、その中でも最たるものでしょう。

 日本語の「権威」という言葉の意味を調べてみますと、「自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと」とありました。同意はともかく、服従という言葉にどうしても違和感を覚えてしまうのは、わたしだけではないと思います。しかしもう一度よく読んでみますと、「自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと」、つまり力で押さえつけるという事ではなく、「自発的にそうなるように促す」と書かれていることに気づかされます。

 イエス様が人々の前で話をしたときに、人々は驚きました。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」と。律法学者をイメージしてみましょう。学者という名前がついているくらいですから、とても偉い人です。よく勉強している人です。そして人々に様々なことを教える立場の人でした。

 彼らは普段、どのように人々に語っていたのでしょうか。偉そうに、ふてぶてしく、上から目線で、いろいろと想像できますし、あながち間違いとも言えないと思います。しかし彼らの教えの特徴は、こういう風に言うことができます。

 彼らはこのような常套句をいつも用いていました。彼らは人々に教えるときに、このように言ったのです。「ラビ○○は言っている。安息日にはこのようなことをしてはいけないと」、「ラビ〇〇は言っている。このような場合はこんな犠牲をささげなければならないと」。たしかに無難なやり方です。だれそれが言っていた。それもユダヤ教の結構有名な先生が言っていた。だからそれを守りなさい。そうすれば間違いない。これはとても分かりやすいです。人々も聞く耳を持つでしょう。

 今回のコロナの中では様々な決断を求められています。誰か上の人が「こうする!」って決めてくれて、それをそのまま伝えることができたら楽なんだろうなって思ったこともあります。こういうときは礼拝を休止し、こうなったら聖餐式に戻す。みんなが知っている人の名前を出せば、その言葉に重みが出る。しかし少し厳しい言い方をしてしまえば、そこで責任を逃れようとしているとも言えるのです。

 ところが、イエス様は違いました。権威ある者として語られた。そしてその言葉を聞いた人が心動かされ、自然にその言葉を受け入れていくのです。イエス様は何を語られたのでしょうか。マルコ福音書1章15節にこのような言葉がありました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、この言葉を、イエス様は人々の前で語ったのではないでしょうか。

 そしてこの言葉は、誰かが言っている言葉ではないのです。どこかで聞いた言葉でもないのです。神さまの思いを、神さまのご計画を、イエス様がご自分の口で、ご自分の責任で、語られている。そしてその声は、今ここにいるわたしたちにも届けられているのです。時は満ち、神の国は近づいたのです。この宣言を、権威ある教えとして、語られたのです。

 そしてイエス様の権威ある新しい教えは、この言葉だけではありませんでした。会堂に、一人の人がいました。その人は、(けが)れた霊に取りつかれていたといいます。(けが)れたという言葉、その言葉は聖書の中ではとても大きな意味を持ちます。

 旧約聖書のレビ記を読んでいくと、「清い」と「(けが)れている」という分離がなされています。こういうことをしたら(けが)れてしまう。でもこうやったら清くなれる。

 (けが)れているときには会堂に入ることもできず、人々の交わりからも排除されます。神さまのみ手からも離れてしまっていると思われていました。そして自分を「清い」と思っている人たちは、(けが)れた人とは関わりません。もし汚れた人に触れたりしたら、自分も(けが)れてしまうからです。それが彼らの聞いていた「教え」でした。

 しかしイエス様は違ったのです。「かまわないでくれ」と叫ぶ(けが)れた霊に取りつかれた人に対して、かまったのです。関わったのです。それは「病気のいやし」とは一線を画すものでした。(けが)れを取り除いたイエス様のおこないは、その人を再び神さまの元に連れ戻す、その人に命を与える、そういうことだったのです。

 これがイエス様のなさったこと、権威ある新しい教えです。人を排除するのではなく包み込む。人から白い目で見られている人に声を掛け、神さまの元へと立ち帰らせる。それがイエス様のなさったことであり、神さまの思いなのです。そしてその神さまの思いは、わたしたちにも届けられているのです。

 わたしたちは今、この顕現節という期節を、大切に守っています。礼拝堂に集まっている人がいます。YouTubeで祈りの時を持っている人もいます。ご自宅に届いた説教要旨を読みながら、み言葉に心を傾けておられる人もいるでしょう。

 でもその中で、覚えておきたいと思います。イエス様は時が満ちたと宣言し、神さまの愛はわたしたちに届けられるのだと。

 この状況の中でも、神さまは決してわたしたちをお見捨てにはなさらない。そのことをしっかりと心にとどめ、歩んでまいりましょう。

 主は共におられます。