「わたしの心に適う者」
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マルコによる福音書1章7~11節
毎年この時期になると、疑問に思うことがあります。どうしてイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか。みなさんは洗礼を受けるときに、どのような思いで受けられたでしょうか。幼児洗礼なので覚えていないという方は、堅信のときを思い起こしてください。
わたしは洗礼を受けた次の日に、大きなショックを受けたことを思い出します。何がショックだったのかといいますと、わたしは洗礼を受けた後、聖人とまではいかなくてもある程度“いい人”になっていると思っていました。ところが次の日、わたしの心の中には洗礼を受ける前と同じく、悪い思いや妬みなどが次々と沸き起こってきたのです。罪や汚い部分がすべて洗い流されて、清らかな真っ白い体に変えられる。それがわたしの洗礼に対するイメージでした。ところが内面は何も変わっていない自分に気づかされた時に、とても悲しい思いを持ったのです。
洗礼とは一体何なのでしょうか。聖公会では洗礼を受ける前に「教会問答」を学びます。祈祷書の258ページから267ページに34の問いと答えがあって、その意味を学んでいくのです。その中に洗礼に関するものがありますので、お読みしたいと思います。
まず問16です。「洗礼とは何ですか」という問いに対し、こう答えます。「聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠です」と。つまり洗礼を受けることで、わたしたちは新しい生にあずかるということでしょうか。また問18にはこうあります。「洗礼によって与えられる霊の恵みは何ですか」との問いに対して、「罪を赦され清められて、神の家族のうちに生まれ、神の義に生き、キリストに満ちみちている永遠の命にあずかることです」。問19では「洗礼を受ける人に必要なことは何ですか」との問いに対し、「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身をキリストに献げることです」と、このように書かれています。
罪を悔い改める、悪の力を退ける、そして自分自身をささげる。簡単に書いてありますけれども、どれも大変難しいことです。自分の力だけでそのようにできるのであれば、どんなに良いことでしょう。しかしそれができない現実を、わたしたちは一番よく知っているのではないでしょうか。
わたしが洗礼準備をするときに、いつも強調していることがあります。それは洗礼式のときの誓約の中で、何度も同じ言葉が出てくることを、忘れないで欲しいということです。その言葉とは、「神の助けによって」という言葉です。
洗礼を受けるということは、わたしたちの真っ黒い心が、新品のシャツのように真っ白に洗われることではありません。悪い思いが一切なくなり、いつも穏やかに暮らせるということでもありません。今まで罪を犯していた手や口が、正しいことだけをおこなうように変えられるということでもありません。
たとえて言うなら、わたしたちが住むこの世界は、大きな大きな沼地のようなものなのかもしれません。底が浅くて歩きやすいときもありますが、ぬかるみに足を取られて、なかなか前に進むことができないこともあります。それどころか深みにはまって、胸のところにまで水が来てしまい、どうにかこうにか息をしている、そんなこともあるでしょう。
今、まさにそのような状態だと感じている方もおられるかもしれません。新型コロナの感染状況を聞く中で、日々不安を感じ、もがいている方がおられます。愛する人が天に召され、その悲しみの中からなかなか抜け出せない方がおられます。大切な人が病気で入院しても、面会さえも行くことが許されない、そのような方がおられます。ご自分の体調、心の様子、家族のこと、友達のこと、近所の人、社会のこと、わたしたちをとりまく様々な状況は、決して平たんではない。泥沼です。それでもわたしたちは心の平安を求め、何度でもそこから抜け出そうと頑張ります。しかし体や足にいろんなものがまとわりついて、先に進むことができない。前に向かうことが出来ないのです。
神さまはそのわたしたちの状況をご覧になり、イエス様をお遣わしになりました。それが顕現、神さまの思いがわたしたちの間に示された出来事です。そしてその顕現には、イエス様の洗礼という出来事が付け加えられます。神さまの思いが、イエス様の洗礼によって、意味付けされるのです。
イエス様はなぜ洗礼を受けなければならなかったのでしょう。このように考えることができます。イエス様は洗礼を授かることによって、わたしたちと同じ場所にまで降りて来てくださったのではないか。わたしたちと同じ目線にまでその身を低くされたのではないかと。
泥沼にはまり、動けなくなってしまっているわたしたちの元に、イエス様は来られました。イエス様はわたしたちの姿を見て、どうされるのでしょうか。頑張れ、頑張れと、声を掛けるのでしょうか。これにつかまれと、ロープを投げ入れてくれるのでしょうか。そうではないんですね。イエス様は沼の中から叫び続けるわたしたちの姿を見ると、そのままわたしたちのそばに、泥沼の中に飛び込んでくださるのです。イエス様が洗礼を受けられて、わたしたちのところにまで降りられたというのは、そういうことなのです。
わたしたちが足を取られ、歩きにくくなっていたならば、イエス様は肩を貸し、力強く導いてくださいます。わたしたちが視界を奪われ、進む方向がわからなくなっていたならば、イエス様はわたしたちの前に立ち、先導してくださいます。そしてわたしたちが深みにはまり、口のそばにまで水が来て、今にも沈みそうになったら、イエス様はわたしたちを担ぎ上げ、おぶって歩いてくださいます。それがイエス様です。そのためにイエス様は神さまから遣わされ、洗礼を受け、わたしたちの間に来られたのです。
イエス様は高いところからわたしたちを励ますためではなく、神の小羊としてわたしたちの罪を担われ、共に歩まれるために来られました。わたしたちの手を取り、肩を貸し、抱きかかえながら、一緒に歩んでくださるためです。そのことを決して忘れないでください。
新型コロナの影響で奈良に緊急事態宣言が出されたら、礼拝は休止することになるでしょう。でも大丈夫です。イエス様は必ずわたしたちと共にいてくださいます。
そのことを心に留め、また一緒に大声で賛美し、食卓を囲み、手を取りマスクも取って語り合うその日を目指して、祈り続けてまいりましょう。