2023年7月30日<聖霊降臨後第9主日(特定12)>説教

「たとえ、たとえ、たとえ」

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 マタイによる福音書13章31~33、44~49節a

 「たとえ」って何なのでしょうか。たとえとは、身近な経験や習慣などを元に、他のもの意味を伝えるということだそうです。旧約聖書にも何カ所か見られますし、ユダヤ教の教師も好んで用いたようです。 そしてイエス様は天の国のことを、たとえを用いて伝えようとされます。しかし聖書を読んでいると、「イエス様のたとえは分かりにくい」と思うことがあるのではないでしょうか。その理由は様々あると思います。

 ただわたしたちは、たとえを素直に聞きたいと思うんですね。イエス様が語られた言葉に素直に耳を傾け、ただ単純に受け止めたいと思うのです。そのためには、当時の生活習慣などを少し知る必要があると思います。

 さて、今日の福音書には5つのたとえが載せられています。宝や真珠、魚についてはみなさんも見たことがあると思いますし、想像もできると思います。しかしからし種とパン種については、少し説明が必要かもしれません。まずからし種というのは聖書の時代、一番小さな種だと考えられていました。聖書にはぶどうやオリーブ、いちじくなどの植物が出てきますが、それらの種よりもはるかに小さなものです。しかしそのような小さなものが、鳥が巣をつくれるほど大きな木になるというのです。指先に乗せてもなかなか見えない。そのような小さな種が驚くばかりの大きな木になっていく。その過程は、わたしたちの目にはただ不思議なこととして映るだけです。

 またパン種とは、いわゆるイースト菌のことです。当時は、すでに発酵させたパン生地を用いてパン種としていたようです。そのパン種を小麦の粉に混ぜることで、全体を発酵させ、ふっくらと膨らせることができます。ただここで、3サトンと書かれている単位の説明も必要だと思います。3サトンと聞くと、そんなにたいした量ではないだろうと感じますが、実は1サトンは12.8リットル、したがって3サトンとは38.4リットルということになります。3サトンの粉で、食パンを150斤作ることができる量だということになります。想像してみてください。一人の女性がパンを作っています。でもそれは、まな板の上でコネコネしているレベルではないのです。6枚切りで900枚の食パンを作るほどの大量の粉を身体全体でかき回している。そしてその粉を膨らませるのに必要なのが、わずかな量のパン種なのです。

 イエス様は5つのたとえを話されました。そのたとえを用いて、天の国とはどういうものなのかを示されました。天の国とは、わたしたちが思い描く、いわゆる「天国」とは違います。天とは神さまのこと、そして国とは支配を表わします。神さまの愛の支配と考えることもできるでしょう。ですからこの天の国のたとえとは今、わたしたちの間で起こっていること、またこれから神さまはこのようにわたしたちと関わって下さるのだということです。このたとえを通してイエス様は、そのことをわたしたちに伝えているのです。

 からし種のたとえから、わたしたちは何を知ることができるでしょうか。神さまはクシャミ一つで飛んでいきそうなからし種にさえ目を留め、大きく育ててくださるということです。からし種が自らの力で大きくなっていくのではありません。栄養を与えられ、水分をいただき、そして太陽の光をいっぱい浴びて大きくなっていきます。それら一つ一つのものを、神さまの恵みと考えるならば、こう考えることができます。わたしたちはたとえ、ちっぽけな存在であったとしても、空の鳥が憩えるように神さまは大きく育ててくださる。そういうことなのです。

 そのわたしたちは、パン種として大量の小麦粉の中に放り込まれます。先に発酵したわずかなパン種が、周りの大量の小麦粉を膨れさせるように、ちっぽけなわたしたちを通して、神さまの愛が周りの多くの人たちに与えられ、そしてみんなが神さまの愛に満たされていく。それがこのパン種のたとえの意味なのかもしれません。

 天の国、神さまの愛の支配とは、そのようなものなのです。小さなわたしたち一人一人が神さまに招かれ、成長させられていく。そして遣わされた場所で、神さまは大きくわたしたちを用いてくださるのです。だからわたしたちは、喜びをもって天の国を求めていくのです。畑に宝が隠されていたら持ち物を売り払ってでも手に入れるように、高価な真珠を見つけたら持ち物を売り払ってでも手に入れるように、何としても天の国、神さまの愛の支配の元にい続けたい。それはわたしたちが用いられ、また周りの人たちと共に生きていくことができるからなのです。

 しかしその中で、最後のたとえだけが少し異彩を放っているようにも思います。天の国は網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚が集められるようなものだと書かれています。そして良い魚は器に入れられるけれども、悪い魚は投げ捨てられる。これが世の終わりだというのです。神さまの裁き、そこにスポットが当てられているようにも感じますが、そうではなく先週の「毒麦のたとえ」と通じるところがあります。先週の説教は副牧師のみさ司祭がおこないましたが、彼女はその中でこのように語りました。

 神さまは、私たちの中にある毒麦をも認めてくださっています。毒麦しかない人間はこの世に存在しません。最初は良い種しか蒔かれていなくても、みんなこの世に生きている限り毒麦は生えてきます。でも自分の中にあるそれらの毒麦の存在を認め、自分は完璧でないどころか、弱く情けない畑であるということを知ったとき、私たちは種を蒔いてくださった大いなる方に出会い、安心して生きてゆくことができるのです。

 この「毒麦」のところを「悪い魚」と読み替えてみたらいいと思います。神さまはわたしたちの「悪い魚」のところもひっくるめて受け入れてくださいます。その自分の中の悪い部分を認め、神さまにお委ねする。神さまは世の終わりまで、わたしたちが良い魚になるのを忍耐して、待ち続けられているのです。でも、ここは勘違いしないでください。自分の力だけで、「良い魚」になれるわけではありません。神さまの前にふさわしくないわたしたちが「良い」となるために、神さまは一つの決断を下されました。それがイエス様の十字架です。イエス様の十字架の血によって、わたしたちの罪は赦され、わたしたちはそのままの姿で、たとえ「悪い魚」であったとしても、神さまの前に良い物とされ、受け入れられるのです。

 すべての人が自分の元に戻ってくることを、神さまは忍耐され、待ち続けておられます。それこそがわたしたちに対する福音であり、そしてわたしたちが伝え続けていくべきことなのではないでしょうか。天の国、神さまの愛の支配はすでに、わたしたちの間に溢れています。神さまの愛に招かれ、豊かになり、そして周りの人たちと分かち合う。そのような一人一人に、そのような教会になれるように、祈りましょう。