「網を打ちなさい」
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ヨハネによる福音書21章1~14節
今日はまず、使徒言行録の物語を見てみましょう。ここに出てくるサウロという人物は、のちにパウロと呼ばれる人物です。そのサウロですが、主の弟子たち、つまりイエス様に従う人たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいました。またイエス様に従う人を見つけ出したら男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するために大祭司に手紙を書いてもらっていたそうです。
パウロと聞くと、新約聖書に書かれた手紙を思い浮かべます。その手紙は、わたしたちも毎週の礼拝で読んでいますし、またキリスト教の考え方の基礎ともなっています。彼はイエス様の福音を宣べ伝えるために、その生涯を費やしていきました。
ところが当時サウロと呼ばれていたパウロは、キリスト者から見たら迫害者だったんですね。サウロの名が最初に出て来たのは、ステファノの殉教の場面でした。使徒言行録7章57節にはこのようにあります。
人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
さらに8章1節には、こう書かれています。
サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
そのような彼が、どうして変えられたのでしょうか。キリスト者に敵対していた彼が、なぜキリスト教の礎を作り上げるような人物になったのでしょう。そのきっかけになった出来事が、今日読まれた使徒言行録に書かれています。サウロはダマスコの近くで、復活の主イエス様に出会ったのです。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」という声が聞こえてき、三日間、サウロは目が見えなくなりました。その目がアナニアの祈りによって開かれます。サウロの目は開かれ、本当に大切なものに気づかされたということなのです。
福音書の物語にも、目を向けてみましょう。ここに書かれているのは、弟子たちが漁に行ったときの話です。彼らは夜通し漁をしましたが、何もとれませんでした。さて夜が明けた頃、不思議なことがありました。その岸辺に、復活のイエス様が立っていたのです。しかし弟子たちは、それがイエス様だとは分からなかったというのです。逆光だからでしょうか。そうではありません。目が遮られていたのです。いろいろなものに遮られて、大切なものが見えなくなっていたのです。復活のイエス様は言われます。「舟の右側に網を打ちなさい」と。その言葉に従って網を打ち、大量の魚がとれたときに、弟子の一人が「主だ」と言うのです。弟子たちはそこで、ようやく気付かされる。目が開かれたのです。
この四月。わたしは三度、三重にある聖十字看護専門学校に行きました。聖十字看護専門学校は菰野の教会から歩いて5分ほどの場所にあります。わたしが菰野聖十字の家で働いているときも関わりがあったのですが、2017年からは評議員としてお手伝いしている状況です。
この学校を作られたのは、京都教区の退職司祭である小松幸男司祭です。彼には神学校に行くことを決めたときにも大変お世話になり、またたくさんのことを教えてもらいました。小松司祭は看護学校でもいろいろな働きをされていましたが、ここ数年は高齢のために表に出ることがほとんどなくなってしまいました。今年3月の評議員会の場で、その専門学校の特色はキリスト教であること、そのためにできることは何だろうかということが議論されました。そこでお願いされたのが、入学式でのお話しと、授業を2回でいいから受け持ってほしいということでした。ただ授業といってもそのような免許を持っているわけではありませんので、一年生の講義のコマを使って、聖書やキリスト教のお話しをするということです。聖歌「いつくしみ深き」を用いたり、よきサマリア人や放蕩息子のたとえを話したり、山上の説教やあしあとの詩など、いろんな視点から人との関わりの中で大切なことを一緒に学んでいきました。
そして入学式のとき、また授業の中で、わたしが学生の皆さんに伝えたかったことは、簡単に言うとこういうことでした。「三年間、みなさんはいろんなことを学んでいきます。技術は向上するでしょうし、いろんなテクニックも身についていくと思います。でも忘れないで欲しいのは、すべてのことが完璧になって、卒業して、資格をとって、現場に行く、のではないということです。この三年間の授業や実習を通して、たくさんの経験を積んでいく中で、自分の中には足りないもの、欠けているところがあるということを知って欲しい。そしてそれを支える存在にも気づいて欲しいのです」と語りました。
その支える存在とは一般的には家族や友人、先生たちなのでしょう。でもわたしはイエス様が、どんなときにもそばにいて支えてくれる。完全ではないわたしたちと一緒に喜び、一緒に泣き、そしていつも寄り添ってくれているのだとお話ししました。
聖十字という名がついた看護専門学校ですが、クリスチャンの学生はほとんどいません。でもいつかどこかで、神さまの呼ぶ声に気づかされ、ずっと心の扉を叩き続ける復活のイエス様に出会い、そして目が開かれますようにとお祈りしていきます。
さて今日読まれたパウロや弟子たちと復活のイエス様との出会い、共通しているのは「目が開かれる」ということです。そしてその開かれた目の先には、復活のイエス様がいつも一緒にいてくださるというとても大きな安心感があったのです。
パウロや弟子たちのその後の働きは、聖書が伝えるところです。十字架につけられるイエス様を見捨てた弟子たち、イエス様のことなど知らないと言ったペトロ、イエス様に従う人たちを迫害したパウロ、しかし彼らは復活のイエス様に出会って、変えられました。そして大きな働きをしていくのです。
でも彼らはきっと、分かっていたと思います。それらの働きは、決して自分の力だけではできなかったのだということを。復活のイエス様が共に働いてくださるから、大きな実りが得られたのだと思います。
わたしたちもまた、復活のイエス様と出会っていきたいと思います。欠けが多く、小さく弱いわたしたちですが、イエス様はそのわたしたちを呼び、招き、共に歩んでくださいます。
そして促されるのです。「舟の右側に網を打ちなさい」と。わたしが一緒に働くから、あなたたちは何も心配しなくて大丈夫。
そのみ声に聞き、歩んでいきましょう。イエス様との出会いが一人でも多くの人たちに与えられるように、イエス様と共に網を打っていきたいと思います。