「わたしを思い出してください」
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ルカによる福音書23章35~43節
この奈良基督教会でいつも大変お世話になっております、ウイリアムス神学館3年生の梁と申します。本日、私が奨励をさせていただく機会を与えてくださった古本先生、また、聞いてくださる皆様に、心から深く感謝申し上げます。
本日は、降臨節前主日です。また、本日は、教会の伝統によれば、「王なるキリストの主日」とも言われています。そのように言われているのは、本日の礼拝に用いられている特祷において、その理由を確認できます。礼拝の初めに唱えられた特祷の中で、「王の王、主の主」という言葉が使われております。この言葉は、イエス様はキリストであって、また、王の王、主の主であります、という告白です。そして、本日の福音書においても、イエス様に対して、「あなたはわたしの王です」と、告白している人物がいます。本日の箇所において、イエス様は二人の犯罪人とともに十字架にかけられました。そして、あらゆる人から嘲笑され、侮辱され、またののしられました。しかし、その中の一人だけは、イエス様を積極的に弁護しています。そして、その人はイエス様に「私のことを思い出してください」と、懇願します。しかも、驚くべきなのは、この人が何と、イエス様とともに十字架にかけられた、二人の犯罪人の内の一人であったというです。
実は、私自身は、この個所を読むことがとても、つらいです。本日の箇所である、ルカ福音書だけではなく、他の福音書、マタイとマルコ、そしてヨハネにおいても、イエス様の受難の箇所は、目を通すことはできても、それを「読む」ことは、できる限りしたくないのです。というのは、この箇所がまるで、大勢の人たちが一人を囲んで、「お前はこの世の中から消えてもいいやつだ。お前さえなければ、みんな幸せになるんだ。だから消え失せろ」と言わんばかりに、一方的に殴り、ののしり、人格を壊すという、人間社会の「闇」が赤裸々に表されると思うからです。また、こんなことを話すと、「嘘をつけ!」と言われるかもしれませんが、そのように一人の人、すなわち、イエス様をぼこぼこにしているこの人たちを見ると、このように思うのです。自分は、もしかすると、その群れの中の一人として、みんなと一緒にイエス様をののしり、侮辱し、また人格を全否定して「あんたなんか消えてしまえ」という言葉を吐いたかもしれない、と思うのです。言い換えれば、私はイエス様を庇い、イエス様のことを弁護した、あの悔い改めた犯罪人のように振る舞うことも、また「私のことを思い出してください」と願うことも、おそらくはできないだろう、と思っているのです。
十字架にかけられたイエス様を嘲笑し侮辱していた人たちの中で、私が一番共感できると思っている人物は、イエス様と共に十字架にかけられた犯罪人の一人です。どちらかというと、「お前はメシアだろう?お前自身と俺たちを救ってみろ!」と、イエス様をののしった犯罪人です。この犯罪人を見ながら、私は自分の日ごろの生活において、彼のように行動することがいくつかあったな、と思われました。それがどのようなことであるか、と言うと、相手の苦痛や嘆きに目を向けず、ただ自分のことだけで精一杯な状態で、相手が自分のことをわかってくれないということで、すぐ相手を非難し、「こんな事さえしてくれないあなたは、本当に悪い人」と暴言を吐く、ということです。この犯罪人は、本当に自分のことで精一杯な姿を見せています。彼がどのような状況だっただろうかを、想像してみたいと思います。一番日差しが強烈な時間帯に、十字架にかけられた彼は、水を飲ませてもらえません。それだけならまだしも、通りかかる人たちは、あらゆる嘲弄と侮辱の言葉を彼に浴びせます。しかも、丸裸にされて、一番恥ずかしい部分までも晒されます。頭の上には、「この者はこんなに悪事を極めた、極悪人だ!」という罪状書きもかけられているのです。もし、私がそのようにされるのでならば、私は恥ずかしくて、一秒も早く息絶えることを願うだろう、と思います。同時に、「なんで私はこんなに苦しまねばならないのか」と、全てを呪うに違いありません。そのことを想像すると、彼のイエス様に対するののしりは、そのような彼の心境を垣間見ることのできる表現であると思います。
しかし、彼は自分と同じ立場に立っている人たち、特にイエス様がどのような苦しみを背負っているかを知ろうとはしませんでした。正確には、それを薄々感じてはいたけれど、極力それを認めたくなかった、ということでしょう。今、自分が経験している苦しみがものすごく大きく、それに比べれば、他人の苦痛など、私のものよりはずっと小さいように思われます。しかも、私の隣にかけられている彼は、人々からメシアとしてあがめられた人で、多くの病人を癒し、死んだ人さえも生き返らせた。しかし、そんな人がなぜ十字架にかけられているのだ。きっと、あいつは偽物のメシアに違いない。笑えるぜ、と、彼は思っただろうと思います。だから、彼はイエス様をののしりました。私のことが精一杯だから、私の今の苦痛が他の誰よりも大きいから、そして、そんな私の苦痛をわかってくれないように見えるイエス様が憎らしいから、イエス様をののしりました。
ですが、イエス様はその場において、一緒に苦しんでおられました。輝く栄光をまとわれた王として、全てを見下ろしながら「私があなたたちを救おう」と、まるで「慈しんでやる」という態度ではなかったのです。惨めにされ、鞭うたれ、嘲弄の象徴としていばらの冠を被せられ、あらゆる侮辱を受けられました。そのような姿が、どうして「王」であるのだろうか、と思われることもあろうと、思います。確かに、イエス様のこのような姿は、王というよりは羊飼い、牧者に近いです。この姿は、自分の羊のために命を惜しまず、羊を助けに行く牧者の姿です。ですが、イエス様の譬えに登場する羊飼いは、自分の言うことを聞かなかった羊のことを「悪い羊だ」といって放っておかず、見つけるまで探します。そして、その羊を抱いて喜んで帰ってきます。そのような羊飼いの姿は、民を等しく愛する王の姿として、そしてすべての人に恵みを注がれる神様の姿として見ることができるのではないでしょうか。すなわち、どのような人であれ、たとえ自分をののしり、侮辱する立場に立っているとしても、その人さえも抱きかかえて「一緒に帰ろうよ」と語りかけるイエス様の姿は、イエス様への嘲弄である、「メシア」「王」そのものであるのです。だから、イエス様をののしった犯罪人の仲間は、そのようなイエス様の姿を見て、自分を悔い改め、仲間をたしなめたでしょう。そして、「わたしを思い出してください」と、願うようになっただろうと、私は思っております。こんな姿の自分でさえ、イエス様は近づいてくださり、また、その苦しみを分かち合ってくださる。そのようなイエス様は、他の王たちのように、人の上に「君臨する」厳しい王ではなく、自分をののしる者さえ探し出し、人と共に「生きる」柔和なる王なのです。
来週から降臨節に入ります。同時に、来週は教会暦において新しい一年が始まる週でもあります。本日までの一年間、私もそうですが、皆さんお一人お一人においても、様々なことがあったと思います。自分のことで精一杯で、他の人々がどのような状況であったかを、あまり顧みなかったことも多々あったでしょう。しかし、王であるイエス様はそのような私を叱りつけず、むしろ私を見つけてくださいます。そして、私の中のあらゆる苦悩をともに分かち合ってくださる、私のことを深く知っておられる方でもあるのです。
私たちはそのような柔和なる王であるイエス様を待ち望みながら、「わたしを思い出してください」と祈り、この一週間を過ごしたいと思います。