「神さまからの栄養」
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マルコによる福音書4章26~34節
たとえには、このようなものも多く見られます。それは「神の国のたとえ」です。「神の国は次のようにたとえられる」というイエス様の言葉から始まるものです。マタイ福音書では、「天の国は次のようにたとえられる」とも書かれます。
さてわたしたちは神の国や天の国と聞くと、どうでしょう、どこか違う世界のような思いを持つのではないでしょうか。と言いますのも神の国はともかく、天の国は縮めると「天国」となります。わたしたちが今いる世界が「この世」ならば、神の国や天国は「あの世」。なんとなく今は関係ない、いずれ訪れる場所のように思ってしまうかもしれません。
ところが実は、そうではないんですね。聖書が言う「神の国」の「国」というのは、領土や地域などを指す言葉ではありません。「支配」という日本語が、ニュアンス的に一番近いです。つまり神の国とは、神さまの愛のみ手の中にある世界という意味なのです。そしてイエス様は、神の国はあなた方の間にあると言われています。つまりこれから先に行くところでもなければ、どこか遠くの世界でもない。今ここにいるわたしたちの只中に、神の国はあるというのです。その、わたしたちの間にある「神の国」を感じながら、イエス様が語られた二つのたとえに目を向けていきたいとおもいます。一つは「成長する種のたとえ」、そしてもう一つは「からし種のたとえ」です。
この二つのたとえに共通するのは、いずれも植物のたとえだということです。わたしたちの身近にも、植物は多くあります。そしてみなさんも植物を植えたり、抜いたりという経験はきっとおありでしょう。まず成長する種について、イエス様はこのように言われます。
人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
さて、このイエス様の言葉を聞いて、「いやいや、そんな簡単なものではないですよ」と言いたくなる人もおられるでしょう。種さえまけば、あとは勝手に成長して実を結ぶ。でも実際にはそうではないことを、わたしたちは知っています。
わたしは今年も園舎の西側に、さつまいもの苗を植えました。一昨年、昨年に続いて三度目です。西日が良く当たり、土地もほどほどに乾燥していますので、ある程度ほおっておいてもそこそこのおいもはできます。しかし去年、正直言いまして一昨年よりも出来は悪かったです。その理由はわかっています。それは、あまりにも手をかけなかったからなのです。さつまいもの茎は、地面を這うように長く伸びていきます。そのときに不思議なことですが、茎が地面に接したところから根が生えて来ます。それをそのままにしておくと、そこからも栄養を吸収したりして、実に養分がたまっていかないのです。すると小粒のおいもばかりになってしまう。豊かな実を結ばないということなんですね。おととしはちょこちょことさつまいも畑に行っていたんです。大きくなったかなあ、元気かなあって見に行っていました。そしてたまに、茎の方向を変えてあげる。それでおととしは立派なおいもができたので、もう大丈夫って安心してしまいました。しかし昨年、とても激しい雨が何日も続いた日がありました。その大雨を理由に、「ほおっておけばいいや」ってずっと見に行きませんでした。そして、少し残念な結果になってしまったのです。
神さまが成長させてくださる。それはまぎれもない事実です。でもそのためには、根をしっかりと張って、丈夫な茎を精一杯伸ばし、葉っぱを広げて太陽の光を思いっきり浴びることが必要です。でもわたしたちはときに倒れ、うずくまり、さつまいもの茎のように別の栄養を得ようとしてしまうかもしれません。
そのときにこそ、神の国の仲間、信仰の友が必要なのではないかと思うのです。「そこにいては、神さまのお恵みが十分に得られないよ」、「それじゃあ豊かな実を結べないよ」と助け合い、支えあう人がいる。倒れた茎をグイっと起こして、神さまの栄養を存分にいただけるようにしあう。その交わりこそが、神の国なのではないでしょうか。
「成長させてくれるのは神です」。パウロはコリントの信徒にあてた手紙の中で、このように書きました。確かにそうです。栄養を与え、恵みによってわたしたちの信仰を強めてくださるのは神さまです。でもそれだけではない。「人は一人では生きていけない」という言葉があるように、お互いの成長を助ける、神さまに心を向けるように促すことこそ、わたしたちに求められた使命なのではないでしょうか。
本日13時より、教会では昨年11月におこなわれた日本聖公会宣教協議会からの呼びかけについて、分かち合いのときを持ちます。今日、みなさんの週報棚にもお入れしましたが、3つの大項目とそれぞれ3つの小項目、合計9項目からなる宣教協議会からの呼びかけを、一つずつ共に考えていきたいと思います。
今日は、「神のみ声に耳を傾けよう」という内容で、特に、「イエスの弟子となる」ということについて考えます。「わたしに与えられた賜物はなに?」という問いについて、一緒に考えていきましょう。成長させるのは神さまだから、わたしは何もしなくてよい。もしそうだとしたら、宣教について考えるなんて、時間の無駄かもしれません。でもそうではないのです。
さつまいもの収穫のとき、立派なおいもができていたら、とてもうれしいものです。では神さまにとって、わたしたちが成長し、実をつけることは、どれほどの喜びでしょうか。わたしたちを捜し、見出し、呼ばれ、導き、手を取り、立たせ、共に歩まれる神さま。その中で誰かが実を結んだときに、天では大きな歓声が上がり、そこは喜びで包まれるのです。
そしてその神さまのみ業に、わたしたちもお手伝いできるとしたら。それは素晴らしいことではないでしょうか。ちっぽけなからし種のようなわたしたちを大きく成長させるばかりでなく、用いて下さる。多くの人が実を結ぶ手助けをし、またたくさんの人が心を休める居場所となる。そのような教会の働き、宣教がわたしたちには求められているのです。
こうして考えると、宣教って大変で、やっかいで、しかめっ面しながらおこなうようなものではないんですね。収穫の喜びを期待し、神さまの笑顔を想像し、喜びにあふれながらおこなうとっても楽しいことなのです。
その一つ一つの宣教の業を、大切にしていきましょう。わたしたちに何ができて、わたしたちはどんな賜物をいただいているのか。一緒に考え、成長を楽しむことができれば、こんなに素晴らしいことはありません。神さまの祝福がわたしたち一人一人に与えられ、わたしたちの信仰が神さまによって強められていきますよう、お祈りいたしましょう。