2023年9月3日<聖霊降臨後第14主日(特定17)>説教

「イエス様の邪魔をする者」

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 マタイによる福音書16章21~27節

 今週の福音書の記述を境に、イエス様はこれまで強調してこなかったことを強く伝えていかれます。それは、「自分は何者で、何のために来たのか」ということです。

 先週の福音書を少し、おさらいしてみましょう。先週の場面で、イエス様は弟子たちに、人々は、人の子、つまりご自分のことを何者だと言っているかと尋ねられました。弟子たちは口々に答えました。「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「昔の預言者だ」と。それを聞いて、イエス様は続けてこう尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。それに対してペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、イエス様に褒められ、天の国の鍵を授けられたという話でした。

 ここまで読んだだけですと、ペトロが答えたのは大正解、ということになります。この箇所はペトロの信仰告白と呼ばれますが、まさしく見事にその信仰を告白した、そのようにも思えます。

 しかし今日の箇所で、ペトロは実はものすごい勘違いをしていたことに気づかされます。はっきり言って、イエス様が何者なのかをまったく理解していなかった。そのことが判明してしまうのです。

 今日の箇所に、こう書かれています。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。つまりペトロの信仰告白を受けて、イエス様は受難予告をされたというのです。ペトロがちゃんと信仰告白できるようになったので、もう安心だと思われたのでしょうか。ともかくイエス様はこの箇所以降、まっすぐにエルサレムに、そして十字架に目を向けて、その足を進め始めたのです。「自分は何者で、何のために来たのか」、そのことを、まず弟子たちに向けてイエス様は語られました。神さまのみ心はどこにあるのか、そのことをイエス様は、受難予告という形で告げられたのです。

 すると、そのイエス様の言葉に真っ先に反応したのは、つい前の箇所でその信仰告白をほめられ、天の国の鍵を預けられたペトロでした。彼はなんと、イエス様をわきへ連れていき、いさめ始めたのです。いさめるとは聖書では、かなり強い調子で注意することです。ペトロはイエス様に対して、このようなことを言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。つまりペトロは、「イエス様、あなたが十字架につけられるなんて、そんなバカな」と思っていた。そしてこんな風にも思っていたのではなかったでしょうか。「だってあなたは、わたしの救い主ですよ。せっかくわたしがあなたを認め、あなたについて行くと言ったのに、何であなたは苦しみの中に行くなんて言うんですか。そうではない、あなたはわたしを平安の中に導くべきだ。そうしないといけないんじゃないですか?」。

 ペトロは、救いを求めてイエス様に従いました。「あなたを人間をとる漁師にしよう」というイエス様の言葉に聞き、舟も網も捨てて、イエス様と行動を共にしました。そこにはこんな思いがあったと思います。「この人についていけば、幸せになれる」。

 ペトロの幸せ、それは自分や周りの人たちが、虐げられた状態から起こされる、そして苦しみから解放されて平安に生きることでした。それには武力の行使も必要かもしれない、彼はきっとそう思っていたことでしょう。

 彼を含めた多くのユダヤの人たちは、救いはユダヤに、つまりイスラエルの人にだけ訪れると考えていました。その中でも律法をきちんと守り、決められたささげ物をささげ、きちんと祈る。その人たちだけが顧みられると思っていました。だからペトロは、今の状態でよかったんです。イエス様が一緒にいてくださり、イエス様と物理的に関わることができる人に、平安が訪れる。その一部の人たちのためだけの救い主でよかったのに、なぜイエス様は自ら死を選ぼうとするのか。死んでしまえば、それですべては終わってしまうじゃないか。その思いでペトロは、イエス様をいさめ、「そんなことがあってはなりません」と言うのです。このペトロの姿は、2000年経った今、聖書を通して読むと、「何を馬鹿なことを」と笑ってしまうかもしれませんが、彼は必死だったのです。自分の思う「救い」と「救い主」、その思いが覆されたときに、何とかしなければ、彼は純粋にそう思ったのです。

 わたしたちもまた、救いを求めて教会に連なっています。わたしたちの求める平安、それはどのようなものなのでしょうか。自分の幸せ、自分たちの平和、自分の事ばかりを追い求め、自分という言葉が前面に出てしまうときに、実はわたしたちもペトロと同じようにイエス様に意見し、イエス様を思いのままに動かそうとしれいるのかもしれません。

 そのペトロに対して、イエス様はどう言われたでしょうか。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。厳しい言葉です。先ほどわたしたちもペトロと同じように、と言いました。ということは、この言葉はわたしたちにも告げられているのかもしれません。でもここで、このイエス様の言葉をもう少し深く説明したいと思います。「引き下がれ」という言葉。この言葉は日本語のままだと、「どっか向こうに行け」といったように聞こえます。しかし元々の意味には、少し違うニュアンスが含まれています。それは、「後ろに回れ」という意味です。つまりイエス様は、「わたしの前に出るな」と言われているのです。イエス様はこのとき、十字架への道を歩むことを弟子たちに打ち明けられました。それは神さまのご意思であり、ご計画でした。

 ただし受難予告には、続きがありました。「三日目に復活することになっている」ということです。イエス様はご自分の十字架を背負い、先に先に進んで行かれます。それはなぜか。その向こうにある復活を通して、わたしたちに命の道を与えるためです。民族も、身分も、時代もすべて超えて、すべての人を生かすためです。だからイエス様は、「わたしの前に立つな、後ろに回れ」と言われるのです。「あなたたちが生きるためにわたしは進むのだから、あなたたちはわたしの後ろについて来なさい」、そう言われるのです。自分の、つまり人間のことを思うのではなく、神さまのご計画を受け入れ、神さまとともに歩みなさいと、わたしたちを導いておられるのです。

 わたしたちはそこで、自分に与えられた十字架を背負い、イエス様に倣ってついて行くのです。けれども決してイエス様は、わたしたちが背負えない重荷は負わされません。一緒に軛を担い、寄り添ってくださいます。

 そのことを信じ、歩んでいくことができればと思います。すべての人に光を与えてくださる方の背中を、いつも追い続けてまいりましょう。