2024年5月5日<復活節第6主日>説教

「愛」

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 ヨハネによる福音書15章9~17節

 「互いに愛し合いなさい」、今日の福音書の最後に、この言葉が語られました。愛という言葉は、聖書には多く登場します。今日は、特にこの愛について、ご一緒に考えていくことができればと思います。

 まずイエス様はどのような状況で、今日の福音書の話をしたのかについて見てみたいと思います。今日は復活節第6主日ですが、今日の場面はヨハネの15章です。イエス様の逮捕と十字架がヨハネ福音書では18と19章、復活が20章に書かれていますので、その前の出来事だということになります。

 イエス様は十字架の前に何をおこなわれたのか。マタイ・マルコ・ルカ福音書には、最後の晩餐の様子が書かれています。わたしたちが毎週大切にしている聖餐式の元になったものです。「あなたがたも同じようにしなさい」というイエス様の言葉を守り、わたしたちは毎週、共に食卓を囲んでおります。しかしヨハネ福音書には、その最後の晩餐の場面は描かれていません。その代わりに13章に、とても象徴的な出来事が書かれています。それは洗足、つまりイエス様が弟子たち一人一人の足を洗われたという、そのような出来事です。当時、食事の前にそこに来た人たちの足を洗うということは、奴隷がしていたことでした。少し想像したら分かると思いますが、普段「先生」と呼ばれている人が、突然腰に手拭いを巻き、たらいに水を張り、しゃがみ込んで弟子の足を洗い始めたら、驚くなんてものではありません。

 イエス様はその行為を通じて、わたしたちがどのように人と関わっていくのか、また人に仕えていくべきかを示されました。そしてその模範を示された後に、弟子たちにとても長い説教を語っていかれたのです。その説教は、14章から16章の3章にもわたります。そして17章で弟子たちのために祈ったあと、18章で逮捕されるのです。説教を語ったときすでに、イエス様はご自分がもうすぐ逮捕され、十字架につけられることをご存じでした。つまり弟子たちの足を洗われたのも、長い説教を語ったのも、そして祈ったのも、すべてイエス様ご自身が、まもなく十字架によって弟子たちの前を離れていくことを知った上でなさったことでした。今日の箇所を含む3章にわたるイエス様の説教は、「告別説教」と呼ばれます。その名のとおり、別れを告げる前に大切なことを語るのです。その大切なことの一つが、「互いに愛し合いなさい」ということなのです。自分がいなくなったあとも、みんなで仲良くしなさい。そのようなイメージでこの言葉を捉えてしまうかもしれません。たとえばこの世に残される家族に対して、「平和に暮らしなさい」と言い残して天に召される、そういうことなのでしょうか。イエス様の語る告別の言葉の中には確かに、「あなたがたはこのようにしなさい」という命令が含まれています。互いに愛し合いなさいという今日の言葉もそうです。でもそこに、イエス様が約束なさったことがあることも、覚えておきたいと思います。

 今日の箇所の中に、このような言葉があります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。ただ一方的に命令を下すのではなく、ご自分がまず「愛するとはどういうことか」ということを実践されたのです。それが先ほどもお話しした、自らが弟子たちの足を洗うということでした。

 弟子の足を洗うとき、イエス様はどんな言葉を弟子たちに掛けられたのでしょう。ガリラヤでイエス様に見いだされ、呼ばれてついてきた弟子たち。楽しいこともたくさんあったでしょうが、辛いことも一杯あったのではないかと想像します。ちゃんとした靴を履いているわけもないその足は、それこそボロボロだったのではないでしょうか。イエス様はその、傷だらけで泥だらけになったその一人一人の足を優しく持ち上げ、たらいの水を注ぎ、丁寧に洗ってくださる。足の指と指の間まで洗われて、ちょっと声がでてしまった人もいたかもしれません。でもイエス様はその様子をニコニコしながらご覧になり、腰の手拭いてきれいに拭いてくださるのです。

 その愛を、まずあなたたちに思いっきり注ぐから、あなたたちもお互いに愛し合いなさい、そういうことなのです。昔、聖書が日本に入ってきたころ、ある宣教師は、愛をあらわすギリシア語をどのように訳すか、大変悩んだそうです。というのも、日本語の愛という言葉はかなり限定的な意味を持つからです。聖書の愛は、というより神さまの愛は、見返りを求めず、ただただ一方的に注がれるものです。「あなたがこういうことしてくれたから愛してあげよう」ではない。「愛してあげるから、これこれこういうことをしなさい」ではないのです。ただただ一方的に、神さまから注がれ続ける。まるでシャワーや洪水のように、浴びせられる。先ほどお話ししたある宣教師は、そこでこの言葉をこのように訳しました。「御大切」と。大切の前に、御という文字をつける。つまり、とってもとっても大切にするということです。

 神さまがわたしたちをまず、とても大切に思ってくれた。だからイエス様を十字架に向かわせてわたしたちの罪を代わりに背負わせ、そのことによってわたしたちが、ずっと神さまとの交わりの中にいられるようにしてくださったのです。

 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」、今日の福音書の中のイエス様の言葉です。神さまの愛の中にいるから、わたしたちにも喜びがあふれるのです。そのことをイエス様は伝え、そして十字架へと向かわれたのです。

 今日の福音書は、ヨハネ福音書15章9節からでした。聖書をお持ちの方は、ぜひヨハネ福音書15章をお開け下さい。その1節からには、「わたしはまことのぶどうの木」から始まるイエス様の言葉が書かれています。その中に、このような言葉があります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。

 今週木曜日は、昇天日です。2000年前、復活されたイエス様が弟子たちにあらわれ、共にいたのが40日間。40日経って、イエス様は天へと昇られました。それが昇天日の出来事です。

 ただイエス様は、単に弟子たちの元を去って行ったのではありません。聖霊を弟子たちに与える約束を残して、天へと昇っていかれました。その約束は、2000年前だけで終わってしまったものではありません。それから先、復活のイエス様と出会う一人一人に、ずっと関わっていくのだという神さまの大きな約束が、わたしたちにも与えられています。わたしたちにずっとつながり、わたしたちをずっと愛し続け、そしてわたしたちを「友」としていつくしんでくださる。その恵みの中に、歩んでいきましょう。神さまの愛を身体いっぱいに受け、わたしたち一人一人がとなりにいる人を、心から大切に思えるよう導かれますように、お祈りを続けてまいりましょう。