2023年1月8日<顕現後第1主日・主イエス洗礼の日>説教

「洗礼って?」

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 マタイによる福音書3章13~17節

 2000年前、ヨルダン川で叫ぶ一人の人物がいました。彼の名前は洗礼者ヨハネ、彼は人々に洗礼を授けていました。ただし洗礼といっても、わたしたちのイメージする洗礼とは少し異なっていたようです。ユダヤの人たちは、自分の罪を自覚するたびに、何度も洗礼を受けていたようです。罪を犯すたびに、人々は神さまに赦しを求めていきました。旧約聖書には罪を犯したらどのような献げ物を神殿にささげたらいいのか、そのようなことが細かく決められています。そして自分自身の悔い改めのために、罪の赦しのための洗礼を受けていたわけです。それは人生に一度きりのことではなく、何度も、何度も、おこなわれていました。聖公会の祈祷書には「個人懺悔」という式文がありますが、そういうイメージでしょうか。

 罪の鎖から解放されて自由になること、それはわたしたち人間にとって、永遠のテーマとも言えることなのかもしれません。

 先日、「堕罪」という言葉について調べていました。「堕罪」とは罪に堕ちるということで、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたことが神さまの言いつけに背くことになり、神さまとの関係が壊れてしまったことを指します。それ以降、人間は罪の中で生きて行かなければならなくなったわけです。

 その「堕罪」に関する資料を読んでいく中で、興味深い考え方に出会いました。それは、自分たちには理解できない不思議なことを説明するために、創世記は書かれたのではとする一つの考え方、仮説です。何で人間って、いつも罪を犯してしまうんだろう。神さまの前に正しく生きることができないのだろう。その理由を物語にしてしまったというのです。きっと自分たちが罪にまみれているのは、自分たちだけのせいではない。きっとどこかに原因があるはずだ。最初の人間が罪を犯してしまったから、自分たちもそこから抜け出せないでいるんだ。そうやってアダムとエバの物語ができたというのです。これはあくまでも考え方の一つであり、100%正しいとは言えないでしょう。しかし人々はいつの時代も、自らの罪と向き合い、そしてどうしても拭えないその汚れに心を痛め続けてきたのです。

 イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける人々の列に並ばれました。このことは言い換えれば、自分の罪を自覚している人たちの間に並ばれたということです。もっと言えば、罪人の間に立たれたということなのです。自分の力だけでは拭いきれない罪と向き合い、それでも何とか清くありたい、神さまの前に正しくありたいと願う人々の間に、イエス様が立たれたというこの事実は、わたしたちに大きな喜びをもたらしてくれるのではないかと思うのです。

 わたしはよく、こんなたとえを話します。わたしたちが今いるこの世界、わたしたちは誰もがぬかるみの上に立っているようなものです。その泥の質や深さはそれぞれ違うでしょう。足をちょっと上げれば簡単に抜け出せそうな人もいれば、足が固まってしまい、一歩を踏み出すことすら難しい人もいるかもしれません。もしかすると首まで泥の中に埋まってしまい、息をするのが精一杯、前を向くことも、光を捜すことすら困難だという方もおられると思います。その中で、「さあ、神さまに向き直って歩きなさい」と言われても、厳しいのです。無理なのです。

 精神的につらい状況にある人に対して、「頑張れ」という言葉はその人を傷つけてしまうことがあると聞いたことがあります。神さまは人間に「頑張れ」と言い続けてきました。でもそこには、限界があったのです。

 泥の中で、暗闇の中で、もがきつづける人々を見た神さまは、愛する独り子であるイエス様をこの世に遣わすという決断をくだされました。それがクリスマスの出来事であり、「主は救う」という意味を持つイエスという名前に込められた思いです。

 それまでも神さまは、預言者たちの口を通してご自分の思いを伝えてこられました。けれどもイエス様の降誕は、それらの出来事とは全く違うことでした。どう違うのか。それが今日の福音書の記述にあらわれています。イエス様はその活動を開始するそのときに、洗礼を受けようとする人々の列に加わりました。罪人たちの間に立たれたのです。「神の子」であるならば、待っていればよいのです。人々が努力して、選ばれた者だけがイエス様の元に行く、それが本来であれば、当たり前の形なのです。

 イエス様が洗礼を受けたいと洗礼者ヨハネに申し出たとき、彼はこう答えました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

 彼はイエス様の行動はおかしいと思ったのでしょう。ヨハネは、自分がイエス様の元に行って洗礼を受けるべきなのに、と主張しました。この言葉は謙遜のようにも聞こえます。しかし、「あなたから洗礼を受けることが出来るのは、自分のように選ばれた者だけなのだ」と感じていたかもしれないと思うのは、少し極端でしょうか。

 そのときイエス様は、洗礼者ヨハネに「正しいこと」をするようにと語ります。「正しいこと」、それは罪の中に立つイエス様が、罪人と同じように洗礼を受けることです。そしてその行為は、神さまのみ心に適ったことでした。神の霊が鳩のように降り、天からは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえてきました。神さまのみ心は、イエス様を罪人であるわたしたちの間に立たせることだったのです。神さまは泥沼の中でもがき続けるわたしたちをご覧になり、イエス様を遣わされました。ではイエス様は、わたしたちに対してどうされるのでしょうか。上からただ「頑張れ!」と応援されるのでしょうか。そうではありません。それではご自分の手を出して、「さあ、この手につかまれ」と差し出すのでしょうか。実はそれでもないのです。イエス様は、自ら泥沼の中に飛び込まれます。わたしたちを支え、わたしたちを抱き抱え上げ、わたしたちを背中に乗せ、自らも泥まみれになりながら一緒に歩んでくださるのです。そのためにイエス様は来てくださったのです。

 わたしたちは、洗礼によってイエス様と結ばれていきます。洗礼によって、イエス様と共に生きる者とされます。泥だらけの中でも歩めるように、イエス様がわたしたちと共に歩んでくださるのです。洗礼とは、ただ罪を洗い流すだけの儀式ではありません。罪を抱えたままのそのままの姿で受け入れ、寄り添ってくださるイエス様を信じ、受け入れることです。そのように生きて欲しいと神さまが望まれ、わたしたちは今日も生かされているのです。その喜びを、わたしたち一人ひとり感じることができればと思います。そして一人でも多くの人たちに、この神さまの思いが伝えられますように、わたしたちにできることを祈り求めながら、この一年も過ごしてまいりましょう。