2024年7月7日<聖霊降臨後第7主日(特定9)>説教

「つまずき」

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 マルコによる福音書6章1~6節

 今日の福音書には、イエス様が安息日に故郷のナザレの会堂で教えられた様子が書かれています。その場にはイエス様が少年のとき、また青年のときに同じ時間を過ごした人たちも大勢いたことでしょう。彼らの目に、イエス様の姿はどう映ったのでしょうか。驚き、羨望のまなざし、感動、そのようなプラスの思いもあれば、「なんだ、大工のせがれが偉そうに」というかなり批判的な目もあったことでしょう。

 聖書はそのマイナスの空気が原因でイエス様が、ナザレではごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかったと伝えています。そして、ナザレの人々の不信仰に驚かれたとあります。その不信仰がどこからくるのか。その原因は、ナザレの人々がイエス様をよく知っていることにありました。イエス様の生い立ちや過去を良く知っている、そういった先入観によって大切なことから目を背かせてしまったと言えるのです。

 今日の福音書からわたしたちが学ぶところはどこでしょうか。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。その言葉は一体何を意味しているのでしょうか。その言葉の裏には、「大工だったら無理」、「普通の女性であるマリアの息子だったら無理」、「ヤコブたちの兄弟だったら無理」、「自分たちと同じ生活をしていたら無理」、という人々の思いがあります。

 当時のユダヤでは、親がこの職業だったら子どもはどうだとか、ある程度決まっていました。祭司の家系や大工の家系、農家や漁師、羊飼いなど、子どもは親の仕事を受け継いでいくのが一般的でした。旧約聖書に出てくるサムエルのように、小さい頃から祭司に預けられる場合はありますが、イエス様はそうではありませんでした。大工の息子として生まれ、そして自らも大工として生きてきた。それも30歳まで。そのことを故郷の人たちはよく知っていました。

 そのために人々は、イエス様につまずきました。この「つまずく」という言葉について、少し考えてみたいと思います。このつまずくという言葉は、聖書の元々の言葉であるギリシャ語では「スカンダリゾー」というものです。さて、スカンダリゾーと聞いて、何か近い言葉を思い浮かべないでしょうか。そうです。スキャンダルという言葉の語源になったのが、このスカンダリゾーなのです。スキャンダルの意味を調べてみました。このようにありました。「社会的地位のある人の名声を汚すような不祥事、情事、地位を利用した不正事件など。またそれに関するうわさ。醜聞」。週刊誌やワイドショーなどで、有名人が犯してしまった犯罪行為やモラルに反したおこないを連日のように報道することがあります。ネットを見ていても、様々な情報と、誰かをおとしめたりさげすんだりする記事とが混在しています。

 わたしたちはそのような情報に左右されがちです。そしてその情報による思い込みによって、真実が見えなくなる、本当に大切なことが分からなくなってしまう。そのようなことが起こっていくのです。その情報が目を遮り、足元にある小さな石にさえ気づかない。その結果、つまずいてしまうのです。神さまが本当に伝えたかったことを、受け入れることができない。ではわたしたちはどのようにすればいいのでしょうか。

 先月6月16日の日曜日、礼拝のあと昨年11月におこなわれた宣教協議会からの呼びかけを分かち合う時間がもたれました。その時の内容は、「神のみ声に耳を傾けよう」という中の、「イエスの弟子となる」ということでした。わたしに、そして教会に与えられた賜物は何だろうという様々な思いを共有することが出来て、とても豊かな時間になったと思います。

 第二回はまだ計画段階ですが、次のテーマは「進むべき道を問い続ける」というものです。どのように歩めば、わたしたちは「つまずきの石」に足を取られることなく、進んで行くことができるのでしょう。宣教協議会からの呼びかけのカードを見てみると、さらにこのように書かれています。「聖書を読み、神のみ心を祈り求めよう」。聖書を読む、よく言われるのは、聖公会は他のプロテスタント教会と比べて聖書を読まないということです。

 確かに説教中、聖書を開いていろいろと書き込む方は少ないかもしれません。多くのプロテスタント教会で信徒の方が聖書を持って来る理由はあります。それは説教の時間がわたしたちの礼拝よりも長く、大体40分ほど、長ければ1時間以上あることです。その中で牧師さんは、「どこそこの箇所にこんなことも書いてある」って突然言われたりします。するとみなさん一斉に、その箇所をバーッと開けるのです。でも聖公会では、説教も15分くらいなのでそんなに聖書箇所を外れたところにいくことも少ない。ただわたしはここで、聖書を持って来ることの是非を語りたいわけではありません。聖公会の批判をしたいわけでも、逆にプロテスタント教会に対してモノ申したいわけでもありません。

 わたしたちにとって、聖書とは何なのか。このように言うと語弊があるかもしれませんが、個人的な思いですので語らせて頂きたいと思います。わたしは聖書とはお勉強の対象ではなく、神さまが直接語り掛けてくださる手紙、それも愛がたくさん詰まったラブレターだと思っています。その愛の手紙を、純粋な気持ちで受け取る。「あの人には下心があるかもしれない」、「きっとわたしの財産を狙っているんだわ」なんて考えながら恋文を読んでしまうと、相手の気持ちはスーッと入って来ません。それと同じです。

 聖書の読み方にはいろいろあります。毎日決められた量を読む、福音書だけを何度も読む、日々のみ言葉のような読むのを手助けしてくれる文章と一緒に読む、パッと開いて目についたところを読む。何でもいいのです。大事なのは、どういう姿勢で聞くかなのです。ナザレの人たちは、神さまからのメッセージよりもイエス様という人間的な部分に引っ張られて、つまずいてしまいました。しかめっ面しながら首を横に振り、本当に大切なものを受け入れることができませんでした。

 わたしたちはどうでしょう。聖書という神さまからの愛のメッセージを、説教という福音、喜びの知らせを、どのように受け取るのでしょうか。ワクワク、ドキドキしながら、喜びをもって受け取っていく。そのことがとても大切なのだと思います。

 目に見えるものに惑わされずに、目には見えないものに目を向けることができれば、本当に素晴らしいのではないでしょうか。神さまの声に耳を傾ける、そのことをこれからも心に留めていくことができればと思います。